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マタイの福音書 3:1~6、13~17 イエスのバプテスマ [説教]

【聖書個所】マタイの福音書 3:1~6、13~17
【説 教 題】イエスのバプテスマ
【中心聖句】天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、
わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】43


 きょうのところには、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けなさったイエスさまのことが取り上げられています。そして、この出来事は「イエスさまの公生涯のスタート」と言われています。では、このときイエスさまは何歳くらいだったのかというと、残念ながらマタイの福音書からはそれを知ることができません。しかし、ルカの福音書3:23によると、受洗後、教えを始められたときの年齢が「およそ30歳」とありますから、イエスさまの公生涯のスタートは、およそ30歳と理解してよいのではないでしょうか。
 なお、この福音書の著者マタイは、きょうのところで、救い主イエスさまを登場させるにあたって、まずはバプテスマのヨハネを取り上げています。そこで前半では、このヨハネについてみていきましょう。
 たとえば、4節をご覧ください。著者マタイは、わざわざここでヨハネの風貌を取り上げており、彼は「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め」とあります。要するに、お気づきになられた方もおられるかと思いますが、興味深いことに、その服装が旧約時代の預言者エリヤのそれとよく似ているのです(Ⅱ列王1:8読む)。
では、彼はそのエリヤと何か関係があるのかというと、確かに、旧約聖書のマラキ書によると、終末におけるエリヤの再来、つまり世の終わりにあってはエリヤのような預言者が再び現われるということが預言されていました(マラキ4:5)。そのため、バプテスマのヨハネは人々から「あなたはそのエリヤなのですか」と尋ねられたりもしたわけです。しかし、彼は「いいえ」と言ってそれを否定しました(ヨハネ1:21)。ということは、彼は再来のエリヤではなかったのかというと、イエスさまご自身が、後に「このヨハネこそ、まさしく再来のエリヤであった」(マタイ17:12)と告げていることからすると、恐らく、ヨハネは謙遜のあまり「いいえ、私はそのようなものではありません」と言ったのかもしれません。あるいは、もしかするとそのとき本人にその自覚がなかったということも考えられます。
 いずれにせよ、預言者エリヤの主たる働きは、イスラエルの民を偶像礼拝から真の神に立ち返らせることでした。同じく、バプテスマのヨハネの場合もそうでした。彼は、王の王・主の主でいらっしゃるイエスさまをお迎えするにあたって、平らで、まっすぐな、通りやすい道をあらかじめ備えるがごとくに、そのようにして民の心を神へと向かわしめたのです。
 さて、こういうことですから、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」とのヨハネの呼びかけに応じて、たくさんの人々がヨルダン川で彼から洗礼を受けました。ところが、中には、それに素直に応じない人々もいたようです。7節に「パリサイ人やサドカイ人」とありますが、彼らの場合、人間的なプライドや偏見が邪魔をして、素直に悔い改めることができず、洗礼を受ける恵みを自らの意志をもって拒否してしまったのです。
 一方、イエスさまはというと、パリサイ人やサドカイ人のようにではなく、自ら進んでこのヨハネから洗礼を受けようとなさいました。なぜでしょうか。「罪ある者が、悔い改めて神に立ち返る」…、そのための洗礼であるなら、罪のないイエスさま、父なる神との親しい交わりの中にあるイエスさまがその洗礼を受ける必要はないからです。では、イエスさまはなにゆえに、そこまでして洗礼を受けたいと願われたのでしょうか。
 この答えとなるヒントは、15節にあります。これはイエスさまのおことばですが、イエスさまは次のように言われました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と…。要するに、イエスさまが自ら進んで、このヨハネから洗礼を受けようとなさったのは、ご自身に罪があったからということではなくして、むしろ罪ある人間と同じ立場に立ち、人と同じようになることが父なる神のみこころであることを知っておられたイエスさまであられたがゆえに、罪を犯すということは別として、人としての正しいことはすべて、それを実行しよう…。そして、人としての正しいことの1つが「洗礼」であり、ゆえにイエスさまはこうしてバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになられたのです。
 ということは、どういうことが言えるでしょうか。洗礼は受けてもいいし、受けなくてもいい、そのどちらでもいいというような類いのものではなくして、洗礼は受けるべきもの、ぜひ受けていただきたい、そのようなものであり、そしてそれはなぜかといえば、何よりもイエスさまご自身が私たちのために、そのよきお手本を示されたから…、ということ。私たちは今回、このことを覚えておきたいと思うのです。そして、主を信じ、主にお従いしていきたいと願いつつも、まだ洗礼を受けていないという方がいらっしゃるなら、ぜひちょうどよいときに、すなわち自らの考えで早めてしまうのもどうかと思いますが、さりとて自らの考えで遅らせてしまうということもどうかと思いますので、神さまが示してくださるちょうどよいときに洗礼を受けていただきたいと思うのです。
 最後になりますが、17節にある父なる神のことばから、イエスさまがどのようなお方であられるのかを取り上げてみたいと思います。そこでまずは、「これは、わたしの愛する子」という部分ですが、ある注解書(『新聖書講解シリーズ・マタイの福音書』)によると、これは詩篇2:7に基づいたことばだそうです。すなわち、この詩篇のことばは、「輝かしい王としてのメシヤ」と深く関係しているというのです。
一方、「わたしはこれを喜ぶ」という部分ですが、これはイザヤ書42:1に基づいたことばであり、実は、これは「苦難のしもべとしてのメシヤ」と深く関係しているというのです。つまり、メシヤには王であられるという輝かしい側面と、しかしながらこの地上にあってはしもべとしての苦しみを味わわなくてはならないというもう1つの側面があって、まさしくそのような意味において、このメシヤ預言はイエスさまにおいて成就したことを、私たちは知ることができるのです。いずれにせよ、王の王、主の主であられるイエスさまが、この私たちの罪のために人となってこの地上に来てくださり、十字架という苦しみを味わってくださった…。私たちは、このイエスさまのへりくだりを覚えて、ますますこのお方にあって謙遜にされていくお互いでありたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1.あなたはもうバプテスマを受けていますか。
2.バプテスマを受ける唯一の条件は、何だと思いますか。
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