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列王記 第Ⅱ 5:1~19 [説教]

【聖書箇所】列王記第Ⅱ5:1~19 ナアマンの服従
【説 教 題】ナアマンの服従
【中心聖句】同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(Ⅰペテロ5:5)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】394


 きょうは、神の救いの方法を素直に信じ、受け入れることの大切さについて学びたいと思います。さっそくですが、1節~3節までをご覧ください。ここには、1つ屋根の下にいながら、あらゆる点で対照的なふたりの人物が登場しています。ひとりは、アラムの王の将軍ナアマンです。彼はアラムの王の将軍として、とても主君に重んじられていました。また、尊敬もされていました。しかし、1節の後半をみると、気になることが書かれてあります。「この人は勇士ではあったが、らい病(※新共同訳聖書では、「重い皮膚病」)にかかっていた」…。要するに、彼の外側はピカピカの軍服に身をかため、数えきれないほどの勲章が誇らしげに下がっていたわけですが、彼の内側では重い皮膚病のために皮膚がただれ、悪臭をはなち、その姿は醜いものになってしまっていたのです。そして、そのような醜い姿は自分でもイヤですし、また人にも知られたくありませんから、彼はその醜さを隠しながら生きてきたのです。
 ということで、私たちはこのナアマンから、「が」でつながる2つの側面をみることになるのです。1つは「彼は勇士であった」という喜ばしい側面であり、もう1つは「重い皮膚病にかかっていた」という悲しい側面です。しかもナアマンの場合、それは悲しい側面が強調されている「が」であったことを私たちは知らなければなりません。なぜなら、「この人はらい病にはかかっていたが、勇士であった」ではなく、内容は全く逆の「この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた」と書かれてあるからです。なお、この世の中にはナアマンのような人がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。たとえば、学歴はあるが人を愛せないという暗く悲しい人生を送っている人。財産はあるが友と呼べる友がいないという孤独で悲しい人生を送っている人。もしくは、念願のマイホームを手に入れることができたが家庭内はギスギスしているという辛く悲しい人生を送っている人…。
 一方、ナアマンとは対照的なひとりの人物がここに登場してきます。それはイスラエルから捕虜として連れて来られたひとりの若い娘です。彼女はナアマンとは違って、捕らわれの身であり、ナアマンの妻の奴隷であり、無名かつ無力な女の子でした。しかし、ナアマンにない心の平安、心の豊かさ、さらには逆境をも乗り越えていこうとする前向きな考え方、生き方を彼女はもちあわせていたのです。そして、それはまことの神を信じる信仰から来ていたのです。なお、ナアマンはこうして彼女の助言によりイスラエルの預言者エリシャのところへ出向いて行くこととなったのです。
 ところが、11節によると、ナアマンは預言者エリシャの家にまでは行ったものの、怒って帰ろうとしました。なぜでしょうか。いくつかの理由が考えられます。
① 自分のような身分の高い者が、しかも巨額な金銭と贈り物を携えてやって来たというのに、エリシャは顔も出してくれなかったということへの不満。
② 何か魔術的なわざによってエリシャは自分をいやしてくれると思っていたところが、きれいでもないヨルダン川に7回、身を沈めよと言われたことへの不満。

 要するに、ナアマンは自分のプライドのゆえに、エリシャを通して語られた神のことばを信じ、受け入れることができなかったのです。彼は裸になりたくありませんでした。自分の醜い姿を人目にさらしたくなく、できるものならピカピカの軍服を着たままでいやしてほしかったのです。けれども、今のナアマンにとって大切なのは、そのような自分の都合、自分の考えを優先させることではなく、神の前にへりくだること、へりくだって神のことばに聞き従うかどうかということでした。預言者エリシャがナアマンに顔も出さず、ただおことばだけを伝えたのも、実は、そのような理由からしたことだったのです。
 さて、14節をご覧ください。そこには自分の都合や自分の考えに固執することをやめ、神の救いの方法を素直に信じ、受け入れたナアマンへの祝福というものが記されてあります。読むとこうあります。「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」…。そこで、皆さんはいかがでしょうか。皆さんの中には、外見は明るく、楽しく振舞っていたとしても、実は、その内側にあっては人に知られたくない、ふれられたくない…、そのような暗い部分を抱え込み、ひとりで苦しんでいるという方はおられないでしょうか。しかし、神はきょう、そのようなあなたの心の中に光を差し込んでくださいます。それは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかり死んでくださった、そしてよみがえってくださったイエス・キリストという光です。聖書によれば、私たちではどうすることもできない問題であっても、イエス・キリストを信じるなら、神の恵みのゆえにその信仰によって救われるということが教えられているのです。ですから、どうかこのお方を信じ、受け入れることによって暗やみを光に変えていただくところの人生をあなたのものとしていただきたいと思うのです。中には、自分のプライドが邪魔をして、イエス・キリストによる十字架の救いを受け入れようとしないかもしれません。しかし、川の水は高きところから低きところに向かって流れるわけですから、プライドを捨て、謙遜にならなければ決して注がれることのない神の祝福であるとか、霊的法則とかいうものがあることを、きょうは覚えておいていただきたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. クリスチャンになって、どのような点で変化がありましたか。
2. 服従と盲従の違いは、何だと思いますか。

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列王記第一18:1~46(18:20-24)カルメル山上での対決 [説教]

【聖書箇所】列王記 第一 18:1~46(18:20-24)
【説 教 題】カルメル山上での対決
【中心聖句】 私が仕えている万軍の主は生きておられます。
(列王記 第一 18章15節)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】420


 イスラエルが北と南とに分かれた分裂王国時代のことです。北イスラエル王国において第七代の王として即位したのは、先王オムリの息子アハブでした。しかも、北王国のこれまでの王の中で、このアハブほど霊的に最悪な王はいませんでした。というのも、彼はまことの神にではなく、偶像礼拝に非常に熱心だったからです。すなわち、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎えると、その異教の地からバアル礼拝を持ち込み、バアル神殿や祭壇などを造っては、国民に拝ませようとしたからです。
 そこで、神は預言者エリヤを彼のところに遣わしました。そして、今後2年から3年の間は雨が降らないことを王に告げたのです。思うに、このときアハブ王が謙遜であったなら、彼にとっても国にとってもこれは良い悔い改めのチャンスになったに違いありません。しかし、彼の心はかたくなで、かえって神の側につくエリヤに敵意をいだき、殺意をいだく機会としていくのです。つまり、エリヤのいのちは危険にさらされることになってしまったのです。しかし、神が守ってくださいました。神がアハブ王から彼のいのちを守り、また飢饉からさえも彼の生活を支えてくださったのです。
 ところで、今回の記事は、このようにしてエリヤが神によってかくまわれてから3年目のことになりますが、神がエリヤにこう命じたのです。「アハブ王に再び会いに行くように」と…。なお、エリヤが再びアハブ王のところに遣わされていく目的は2つありました。1つは、神が雨を降らせてイスラエルを癒してくださるということを告知するためであり、もう1つはバアルの預言者との対決を通して、まことの神の力を明らかにするということのためです。
 そこで、16節以降をご覧ください。ここでアハブ王はエリヤに会うなり、「イスラエルを苦しめているやつめ」と言ってエリヤをののしりました。一方、エリヤは「いいえ。あなたこそイスラエルを苦しめているのです。あなたがまことの神を捨てて、偶像の神バアルを拝んでいるからです」と言い返しますと、すぐにバアルの預言者との対決を提案しました。
 するとその提案は受け入れられ、カルメル山には四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者が…、それと大勢のイスラエルの国民が集まって来ました。すると、エリヤはまず大勢のイスラエルの国民に向かって悔い改めの招きをしました。すなわち、干ばつと飢饉に見舞われている中にあって、「まことの神、主を認めて立ち返るのか、それとも、依然としてバアルを神としてそれに従っていくのか、どっちつかずになっていないで、あなたがたの態度を決めなさい」と迫ったのです。しかし、人々の反応はあまりよくありませんでした。
 そこで、エリヤは23節から24節にある具体的な提案をします。すなわち、自分の側に有利に見える条件があれば、それを徹底的に取り除いても結構だということと、私がバアルの預言者の土俵で対決するというのはどうかといったような提案をしてみたのです。すると、人々の反応はよく、「それがよい」と言ってきたものですから、いよいよ対決の開始となりました。
 最初は、バアルの預言者たちの番となりましたが、預言者たちは祭壇に牛を載せると、「バアルよ、こたえてください」と祈り、踊り回りました。ところが、何のこたえもありませんでした。そこでエリヤが「バアルは出かけているのだろう。寝ているのかもしれないから、起こしたらよい」とからかうと、預言者たちはますます大声で祈ったり、自分のからだを傷つけたリして、朝から夕方まで祈り続けましたが、結局のところ、何も起こりませんでした。
 次は、エリヤの番ですが…。彼はまず、そこにあった神の祭壇、すなわりバアル礼拝の蔓延する中で叩き壊され、人々から忘れ去られてしまった神の祭壇を建て直すことから始めました。そうすることが、まことの神に対する信仰の回復の始まりだったからです。次に、祭壇の周りにみぞが掘られ、祭壇の上にたきぎと牛が載せられると、そこにたっぷりの水を注ぎました。つまり、エリヤはわざと、簡単に火がつかないようにしたのです。そして静かに祈り始めました。
 すると、どうでしょう。神のみわざは実に見事というか、天から火をくだすと、いけにえはもとより、たきぎも石も、それに祭壇の周りに掘られたみぞに注がれたたっぷりの水さえもがすべて焼き尽くされてしまったというのです。するとどうでしょう。このようにして圧倒的な神の力を見せられたイスラエルの人々は、まことの神へと立ち返っていったのです。そして、エリヤが祈って待ち望むと、やがて恵みの雨が降り注ぎ、イスラエルの土地とそこに住む人々が癒されるという神の祝福をいただくこととなったのです。
 以上のようなわけで、崩れてしまった祈りの祭壇をもう一度建て直すことのできたイスラエルの民に対して、まことの神に対する信仰の回復が与えられました。また、まことの神への信仰の回復が与えられると、どっちつかずのときには決して味わうことのできなかったさまざまな神の祝福を受けるようにもなったわけなのです。というわけで、私たちの内にもあるかもしれない心の偶像…、ある人にとってそれはお金、ある人にとってそれは配偶者や子ども、ある人にとってそれは趣味や仕事が偶像になっているかもしれないわけですが…、願わくは、そのことにも決着をつけて、神に対してははっきりとした態度をとっていくお互いでありたいと思うのです。

【恵みの分かち合い】
1.偶像となるものに、どのようなものがありますか。
2.どうしたら、信仰の態度に決着がつけられますか。

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