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エレミヤ書36:1~32 聖書とは [説教]

【聖書個所】エレミヤ書36:1~32
【説 教 題】聖書とは
【中心聖句】人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、
      花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。
(Ⅰペテロ1:24~25)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】 37


 だいぶ前のことになりますが、日本でも話題になった書籍に『小説「聖書」』というシリーズものがありました。その第1弾は‘旧約篇’、第2弾は‘新約篇’、そして第3弾は‘使徒行伝’だったと思うのですが、これらの本が次々と書店に並んだのです。著者はウォルター・ワンゲリンというアメリカの作家です。彼については、残念ながら日本ではあまりよく知られていませんが、実は、彼はクリスチャンであり、神学者であり、彼の願いは難解と思われがちな「聖書」に少しでも人々が関心を寄せるきっかけになってくれればという思いから、『小説「聖書」』を書いたのだそうです。
 ところで、その聖書からの出題ですが、はたして「聖書」の著者は誰か、皆さん、おわかりでしょうか。実は、これを書いたのはひとりではありませんでした。たくさんの人々がこれを書き、旧約聖書39巻・新約聖書27巻、合計66巻の聖書となったのです。たとえば、旧約聖書をみるとダビデやソロモンのような王、ダニエルのような政治家、エズラのような学者、アモスのような羊飼いなどがいました。一方、新約聖書にはマタイのような取税人、ルカのような医者、パウロのような法律家、またペテロやヨハネのような漁師などがいました。要するに、いろいろな立場・身分・地位の人々が書いたというわけです。なお、専門家の話によりますと、聖書を書いたのは約40人くらいの人々、書かれた期間は約1600年にも及ぶそうです。
 しかしそうは言いましても、これらの多くの人々がそれぞれの場所・時代に書いたものでありながら、彼らが書いた66巻の聖書には相互に矛盾がなく、驚くほどの調和を保っているということを知るとき、はたしてこのことは何を意味していると言えるでしょうか。思うに、彼らの背後にあってこれら40人もの人々を動かし、1つのことを各方面から書かせたお方がいらっしゃる…。すなわち、永遠の神が彼らを導いてこれを書かせたのではないかという理解がここから生まれてくるわけです。なお、神学用語ではこのことを「聖書の霊感」と言っています。
 ともかくも、今回はそういった聖書の霊感ということを心にとめていただきながら、「聖書とは、実に、火の中を通ってきた本である。」ということを、このエレミヤ書から学んでみたいと思うのです。さっそくですが、BC600年頃、南ユダ王国にあってはエレミヤという預言者が活躍していました。ご承知のとおり、預言者とは神のことばを人々に伝える働きをする人のことでありますが…。ある日のこと、このエレミヤに次のような神のことばがあったのです。「エレミヤよ。ユダの国の人たちは悪いことばかりしている。だから、わたしがあなたに語ったことばをすべて巻物に書きなさい。そして、その巻物を読んで聞かせなさい。そうすれば、自分たちの悪い行ないに気づいて、罪を悔い改めるかもしれないから。」と…。
 そこで、エレミヤは終始彼と行動を共にしたバルクに手伝ってもらいながら神のことばを書くことにしました。神がエレミヤを通して語られたご自身のことばをバルクが巻物に書いていったのです。さて、こうして神のことばを全部書き終えると、バルクはそれを持って神殿へと向かいました。そして、みんなに聞こえる場所に立って大きな声でそれを読み上げたのです。すると、どうでしょう。それを聞いた人々はみな心配になりました。というのも、神に従わないならバビロンという大国によってユダは滅ぼされてしまうというのが、神からのメッセージだったからです。実は、こうして彼らは神に従わない自分たちの罪を悔い改めました。そうです。神のことばにふれた彼らの心に悔い改めが起こると、彼らはまことの神へと立ち返っていったのです。
 そこでバルクは、王の家来たちのところにも行って神のことばを読み上げました。すると、王の家来たちもそれを聞いて驚き、すぐさまエホヤキム王のもとへと知らせに行くのですが…。はたして王の反応はというと、彼の反応は民衆や家来たちとは違って、メッセージを聞けば聞くほど腹を立てました。それというのも、神のことばは自分にとって都合の悪いメッセージであり、彼はそれを受け入れたくなかったのです。とうとう、たまりかねたエホヤキム王は家来が読み上げるそばから巻物をナイフで切り取っては、次々と暖炉の火に投げ入れ、焼いていきました。家来たちは、「お願いです。そんなことをしないでください。」と、王に頼んだのですが、巻物はついに全部焼かれてしまいました。しかも、腹を立てていた王は、憎しみのあまり、こんなことを書くエレミヤとバルクを逮捕するよう家来たちに命じたのです。
 幸い、エレミヤとバルクは神によって守られはしましたけれども、巻物はもうありません。焼失してしまったからです。しかしながら、神は再びエレミヤに言われました。「エレミヤよ。もう1度、わたしのことばを書きなさい。」と…。実は、こうして神のことばは文書化され、保存されていったのです。
いずれにせよ、こういった出来事は一例にしかすぎません。実に、聖書は今日に至るまで、さまざまな形で攻撃され、また迫害されてきました。たとえば、聖書はいろいろな国において読むのを禁じられ、焼かれ、また捨てられなどしました。「聖書の記事は歴史的にみて誤りであり、その多くは作り話である。」「聖書は道徳的にみて、もう古くさい。」「聖書は神のことばなどではなく、人間の文書にしかすぎない。」とも言われてきました。そして、「何十年か経てば、博物館において、過去の遺物として展示されるだけだ。」と言われたりもしました。
 ところが、どうでしょ。20世紀に入ると、中近東一帯の考古学上の研究が進むにつれ、逆に、聖書の記事の歴史的確かさが確認されてきたというのです。つまり、聖書にだけ出てきた都市や民族、王、出来事の多くが実在のものであることが証明されてきたというのです。そればかりではありません。現在、聖書はたくさんの国のことばに翻訳され、また印刷されているので、聖書は世界のベストセラー、あるいは永遠のベストセラーとも言われるようになりました。そうです。人々はこの聖書にこそ生きる指針を見いだそうとしはじめているのです。
 さて、以上のようなわけで、きょうは「聖書とは、実に、火の中を通ってきた本である。」ということをみてきました。すなわち、歴史上どの時代においても、聖書ほど迫害にあった本はないにもかかわらず、しかし聖書は決して滅びることがなかったということをみてきたわけですが…。願わくは、神の霊感によって書かれたこの聖書の権威を認めつつ、みことばに生きることを大事にしていくお互いでありたいと思うのです。

【恵みの分かち合い】
1. 現在、聖書にはいろいろな訳があります。どんなものがあるでしょうか。
2.Ⅱテモテ3:16を開いて読み、「聖書の霊感」ということについての理解を深め合いましょう。

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ルカの福音書19:1~10 取税人ザアカイ [説教]

【聖書箇所】ルカの福音書19:1~10
【説 教 題】取税人ザアカイ
【中心聖句】人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】262

 ここには、実にひたすらお金をため込むことを人生の生きがいとしながらも、心の中には本当の喜びもいのちもないひとりの男性が、イエス・キリストと出会うことによって、その考え方や生き方が全く変えられたという出来事が取り上げられています。そこで今回は、本当の喜びもいのちもない、また寂しく孤独な人生に、どうしたら本当の喜びといのちが与えられるのか…。こういったことをイエスさまに出会ったザアカイという人物を通して学んでみましょう。
 そこでまずはイエスさまに出会う以前のザアカイについてでありますが…、2節をご覧ください。ここには「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」とあります。説明しますと、当時、彼の住むエリコの町やエルサレムを含むパレスチナの一帯はローマ帝国の支配下にありました。ご承知のとおり、ローマ帝国といえば、地中海を中心として、西は今のフランススペイン、南はアフリカ大陸の沿岸地方に至るまで、実に、広い領土を治めていた超大国でありました。そしてその領土内に住む人々は、ローマ帝国に対して税金を納める義務があったのです。なお、そのような広い地域から税金を徴収する場合、ローマ帝国はその土地の人間を請負人として雇うことが多かったようです。またその請負人はというと、さらに多くの取税人を雇って、実際の税の取り立てにあたらせていたようなのです。ですから、ザアカイがここで「取税人のかしら」と呼ばれているのは、まさに彼が多くの取税人を雇っている請負人であったということであり、彼は今で言うところの税務署の署長であったということになります。ですから、世間的にみて、お金と地位ということから、もし人生の成功・不成功をはかったとすれば、それこそ彼は大変な成功者であったと言えるでしょう。
 けれども、私たちはこれだけで彼を理解したことにはなりません。次に考えてみたいのは、このようにお金もあり、地位もあったザアカイが、他の人々からはどのように見られていたかというと…。7節を読んでみましょう[読む]。どうやら、彼は人々から「罪人」と呼ばれていました。人々はザアカイという人間を、文字どおり「罪人」としてきらっていたのです。そしてこれはよくあるような成功者に対するねたみではありません。彼がきらわれるのには、それなりの理由があったのです。
 すなわち、ローマ帝国はなぜ税金を徴収するのに、その土地の人間を用いたのかというと、地元の人の方が、その土地の人々やその土地にあったやり方を一番よく知っていたからです。ですから、取税人と言えば、まさしく敵国に自分を売っては、同胞からお金を集めていた人間だったわけです。ただ自分を売ったというだけではありません。祖国を売っては成り上がっていった利己的な人間、それが取税人だったのです。というのも、その税金の集め方がかなりあくどいもので、ただでさえ重税で苦しんでいる人々から法律で定められた以上のものをだまし取っては、その分を自分のふところに入れていたのです。ですから、取税人といえば、当時の人々にとっては、憎むべき、軽蔑すべき存在の筆頭であり、それが「取税人のかしら」ともなれば、なおさらのことだったのではないでしょうか。
 しかも、取税人はただ感情的に人々からきらわれていただけではありませんでした。実は、宗教的にも汚れた人間とみなされていたのです。これは、先ほど説明したような悪行によるということだけではありませんで、彼らは大切な安息日礼拝を守らず、仕事のために絶えずローマ人と交わっていました。ですから、それゆえに汚れた人間とみなされていたのです。しかも、取税人と食事をする者があれば、その者もまた汚れるとまで言われていましたから、とことん彼らは人々からきらわれていたのです。
 さて、私たちはザアカイについていくつかのことを知りました。彼は金持ちで、社会的には地位があったということ。しかしながら、人々はみな彼をきらっていたということ。そしてそれは、彼があくどいことをしては人々を苦しめ、私腹を肥やすようなことをしていたからだということ。そして、彼は人々とともに神を礼拝することができないというのも、その1つでした。なぜなら、彼は宗教的には救われる見込みのない汚れた人間とみなされていたからです。
なお、私たちはこれでもザアカイという人を理解したことにはなりません。普通、私たちはひとりの人間に対して、これくらいのことがわかれば、その人についてもう十分にわかったと思いやすく、仮に、私たちの周りにもしザアカイのような人間がいたとしたら、「あいつは、もうどうしようもない奴だ」と判断するかもしれません。しかし、私たちはそうやすやすと人を決めつけることはできないし、ましてや人を正しく判断することができるかというと、むずかしいことだと思うのです。
 そこで、私たちはザアカイという人を、もう少し違った視点で、すなわち彼の内面から、このことを考えてみたいのですが…。お金だけが人生のザアカイ。エリコの町の取税人のかしらという地位にのぼりつめ、自分のところに集められてくるお金の勘定に日々を過ごしていた彼の心には、ぽっかりと穴のようなものがあいてはいなかったでしょうか。お金を目当てにへつらいながら自分に近づいてくる人間はいたとしても、本当に友と呼べる友が誰ひとりいないとすれば、何と寂しいことでしょう。確かに、だまし取ったお金を数える中にも喜びはあったでしょう…。けれども、その喜びは決して人間としてのザアカイを内側から満たすものではありませんでしたから、寂しく孤独な人生を彼は送っていたに違いないのです。
 ところで、今度はイエスさまとザアカイとの出会いについてみていきたいのですが…。この日、イエスさまはエルサレムに向かう最後の旅の途上で、エリコの町をお通りになりました。3節をご覧いただくと、ザアカイは「イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。」とあります。すなわち、ザアカイはイエスさまを取り囲んだ群集の外にいて、ひとめでもいい、イエスさまを見たかったのですが、何しろ背が低かったのでそれがかなわなかったのです。
 そこで彼は考えました。「そうだ。あのいちじく桑の木に登ろう。そうすればイエスさまを見ることができるかもしれない」と…。ザアカイは、ただひとめイエスさまを見たいという好奇心から出かけてきました。見ることができればそれでいいのであって、まさかこの日、自分の人生が全く変わってしまうとは夢にも思っていなかったのです。
 ところが、近づいて来るイエスさまとその一行をながめていたときのことです。いちじく桑の木の上にいる彼にとっては思ってもみなかった展開となりました。イエスさまがザアカイのいる木の下に来ると、突然、足を止められ、上を見上げてこう言われたのです。「ザアカイよ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と…。何と、イエスさまは1度も会ったことのないザアカイの名前を知っておられました。いや、名前だけでなく、イエスさまには何もかもがお見通しでした。イエスさまは何もかもご存じの上で、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある。」と言われたのです。
 ザアカイにしてみれば、木から落っこちるほどの驚きだったのではないでしょうか。誰も親しく語りかけてくれなかった自分に対して、イエスさまがやさしく声をかけてくださったからです。しかも、仕事と金目当ての人以外には決して訪れることのなかった自分の家に、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」とまで言ってくださったからです。そこで、ザアカイは急いで木から降りてくると、大喜びでイエスさまを家に迎えました。そしてイエスさまと親しく語り、イエスさまをどんどん知るようになると、こうして彼の人生に大きな変革がやってきたのです。8節[読む]。
 ザアカイの人生に起こったこと…。それは、ひとことで言えば、他人から奪い取るだけの人生から、与える人生に変えられたということです。さらに言えば、愛のない人生が愛に満ちた人生に変えられた。感謝のない人生が感謝のある人生に変えられた。喜びのない人生が喜びのある人生に変えられたということです。「人生は出会いで決まる。」と言ったのは、ユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーでありますが、ザアカイは確かにイエスさまとの出会いによって、その人生が大きく変えられたのです。
 最後になりますが、10節のおことばに注目しましょう。ここにでてくる「人の子」とは、イエスさまのことをさします。では、「失われた人」とは、誰をさすのでしょうか。それは、ザアカイのことであり、またそれは私たちをも含んでいます。では、「失われた」とありますが、ザアカイは、また私たちはどこから失われたのでしょうか。それは、神さまのもとからです。聖書によれば、人間は本来、神さまとともに幸福に生きるようにと、神さまが愛をもって創造してくださいました。ところが、人間は神さまなしでも生きられるかのように思い込み、とうとう自分勝手な道に進んでしまったのです。しかし、その結果はどうでしょうか。神さまぬきの家庭、神さまぬきの社会からは愛が冷え、反対に高慢や利己主義から来る悲惨で満ちてしまったではありませんか。
 さて、そこであなたはいかがでしょうか。あなたは本来あるべきところから離れて、自分勝手な歩みをしてはいないでしょうか。神さまから離れてしまったあなたの心、その心の中には何ものによっても埋め尽くすことのできない空洞があるのではないでしょうか。ある人はそれをお酒で解決しようとします。ある人はそれを快楽で解決しようとします。けれども、それらのものは一時的なものにしか過ぎず、心の空洞を真に埋め尽くすことはできないのです。
 しかし、唯一、あなたの心の空洞をみごとに埋め尽くすことのできるお方がおられるのです。イエス・キリストです。イエス・キリストは今も、失われた人を探して救うために、捜し求めておられるのです。そこでどうでしょうか。イエス・キリストは、きょう、あなたの人生に訪れてはおられないでしょうか。あなたを見上げて語りかけてはおられないでしょうか。その語りかけに対して、あなたは木の枝に身を隠そうとなさるでしょうか。それとも、ザアカイがそうであったように、急いで木から降りてきて、大喜びでイエスさまをお迎えしたいと願われるでしょうか。願わくは、あなたを待っておられるイエスさまのもとに思い切って歩み寄っていただきたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1.ザアカイとは、どのような人物でしたか。
2.イエスさまに出会ったザアカイは、どのように変えられましたか。

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