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ヨハネの福音書11:1~5、38〜44 生き返ったラザロ [説教]

【聖書箇所】ヨハネの福音書11:1~5、38〜44
【説 教 題】生き返ったラザロ
【中心聖句】イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】282


 新約時代の地図(キリストの後期伝道)を見ると、エルサレムから東に約3キロのところ、またオリーブ山の南東に広がる斜面のところにベタニヤという村があります。実は、ここは羊飼いたちがよく羊の群れを連れてやって来るところです。では、羊飼いたちがなぜ羊の群れを連れてここにやって来るのかと言うと、いけにえとしての羊を祭司がここに来て選ぶことになっていたからです。つまり、ベタニヤというところはいけにえの羊が選ばれる場所であったのです。なお、興味深いことにイエスさまはこのベタニヤというところによく足を運んでおられました。もしかすると、それはイエスさまが世の罪を取り除く神の子羊として選ばれていたことと、深く関係しているのかもしれません。いずれにせよ、イエスさまがベタニヤによく足を運んでおられたことは確かなことです。
なお、今回はそこに住む3人の姉弟マルタ、マリヤ、ラザロのお話になります。では、どうして3人なのかというと、早くに両親を亡くしてしまったからです。そのため、姉のマルタは何かにつけ母親の役割を一生懸命に果たしてきました。妹のマリヤも弟のラザロも協力的だったに違いありません。彼らはこのようにして助け合いながら大きくなっていったのです。なお、そんなこともあったからでしょう、イエスさまはこの3人をことのほか心にかけておられました。伝道旅行の際には、彼らの家に立ち寄るなり、彼らの家を宿にすることがたびたびあったようです。ですから、5節にあるとおり、イエスさまがこの3人を深く愛していたことがよくわかります。
 ところが、どうしたことでしょう。きょうのところをみると、ある日のこと、たったひとりの弟ラザロが重い病気にかかってしまいました。そのため、マルタとマリヤは急いでイエスさまのところに使いを送り、助けを求めました。それというのも、イエスさまならきっとこの病気をいやしてくださると、彼女たちはそう信じていたからです。なお、このとき、イエスさまはどこにおられたのでしょうか。実は、はっきりわかりません。わかりませんが、10:40以降のことと関係しているとすれば、イエスさまはこのときヨルダンの東におられ、その地方で宣教活動をしておられたという可能性がおおいにあります。そしてもしそうだとすれば、使いの者がイエスさまを連れて帰ってくるのに必要な日数…、これを単純計算すると、片道でおおよそ2日間をみなければなりません。
 ということは、どういうことが言えるでしょうか。きょうのところと照合して考えると、マルタとマリヤは急いでイエスさまのところに使いの者を送りました。送りましたけれども、ときすでに遅し…、イエスさまのところにたどり着いたときには、すでにラザロは死んでいたのです。けれども、使いの者が来る前から、イエスさまにはそのことがわかっていました。というのも、使いの者が3節のところで「ラザロは病気です。」と言われたのに対して、イエスさまは4節のところで「ラザロの死」を告げているからです。ともかくも、イエスさまにはラザロの死がわかっていたのです。なお、イエスさまは4節のところで、さらに重要なことを告げられました。その重要なこととは、イエスさまには病気をいやす「癒しの力」があるのみならず、何と、死人をさえ生き返らせる「いのちの力」があるということです。イエスさまは、そのことを明らかにされたのです。
 なお、イエスさまとその一行がベタニヤに着いたときのことです。ラザロが死んで深い悲しみの中にあるマルタが、またマリヤがイエスさまを見かけると「イエスさまなら病気をいやしてくださると信じていたのに…。いらっしゃるのが遅すぎます。」といったようなことを泣きながらイエスさまに訴えました。彼女たちはその深い悲しみをイエスさまにぶつけたわけです。けれども、それはそれとして、このとき、マルタもマリヤも、あるいは彼女たちを慰めるために集まってきた人たちも、さらにはイエスさまの弟子たちでさえ、イエスさまのことがまだよくわかっていませんでした。すなわち、イエスさまには癒しの力があるという信仰を彼らは確かにもっていました。また、当時の考えでは死んで三日以内であれば生き返ることもありうるし、その前例もありましたから、それくらいの信仰はもっていました。けれども、彼らの信仰はそこどまりといいますか、「確実に死んでしまえばもう終わり…。たとえイエスさまであっても、人が確実に死んでしまえばもうどうすることもできない。」と彼らは考えていたのです。というわけで、イエスさまには病気をいやす「癒しの力」があるにしても、死んでしばらく経つ者を生き返らせる「いのちの力」があるというところにまでは、彼らの信仰は至っていなかったのです。そして、そのことは39節にあるマルタのことばからも明らかです。彼女はイエスさまに対してこう言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と…。
 すると、どうでしょう。人間的には絶望としか言いようのない死の現実の中にあって、マルタの信仰を呼び覚ますために、イエスさまは次のように言われたのです。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と…。はたして、この後、マルタの心にどんな変化が起こってきたでしょうか。思うに、マルタにはイエスさまとイエスさまのことばにすべてをゆだねていこうとする気持ちが強く起こされてきたのではないでしょうか。すなわち、マルタの目は目先の現実からイエスさまへと向けられていったのです。なお、ご承知のとおり、私たちはこのようにして、この後に続くラザロの生き返りという奇蹟、つまり神の祝福をみることになるわけですが…。
 そこでいかがでしょうか。私たちは今回、こういった祝福にあずかるといいますか、目先の困難や苦難に勝利し、平安の中に生きるという祝福にあずかるためには、その祝福を妨げている石を取り除かなければならないという霊的教訓を得なければならないと思うのです。といいますのも、神の祝福を受けるにあたって、イエスさまはまずこう言われました。39節「その石を取りのけなさい。」と…。すなわち、神の祝福を受けるにあたって、まずはそれを妨げている障害物を何とかして取り除いていただく必要があるのです。はたして、あなたにとって、神の祝福を妨げている障害物は何でしょうか。怒りでしょうか、憎しみでしょうか、敵意でしょうか、赦そうとしない心でしょうか。それとも、なまぬるい信仰、あるいは高慢…。願わくは、お互いに神の祝福を妨げているものが何であるのかを知って、悔い改めるところがあれば心から悔い改め、こうして常に神の祝福を注いでいただくことのできる謙遜な器、聖霊によるいのちの力に満たされていきたいものだと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. ベタニヤに来たとき、イエスさまは私たちと同様、「弔問客の一人」として来られたのでしょうか、それとも「いのちの主」として来られたのでしょうか。
2. 神の祝福を妨げている障害物は、あなたにとって何ですか。必要ならば、悔い改めの祈りをしましょう。

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創世記11:1~9 バベルの塔 [説教]

【聖書箇所】創世記11:1~9
【説 教 題】バベルの塔
【中心聖句】神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。
(ヤコブ4:6)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】372


 皆さんにお尋ねいたしますが、「罪」とはいったい何でしょうか。そもそも、「罪」をあらわすギリシャ語の「ハマルティア」には、「弓を放った矢が的から外れてしまう」…、つまり「的外れ」という意味がそこにはあります。たとえば、人類最初の殺人事件として知られている犯罪者カインですが、彼は神さまのみこころである「殺人の禁止」という的に対して、自らの意志をもって外してしまったがために、弟のアベルを殺してしまったのです。
また、ノアの時代の人々ですが、彼らは神さまのみこころである「両親への尊敬」「姦淫の禁止」、さらには「盗みの禁止」といった的に対して、自らの意志をもって外してしまったがために、町は堕落と暴虐とに満ちてしまったのです。要するに、神さまを神さまとしてあがめず、人を人とも思わない態度、もしくは『十戒』の根底に流れている大切な精神「天を敬い、人を愛する」ということを軽視し、また無視してしまうことが、聖書の教えている罪なのです。
なお、聖書全体を読んでの私の印象ですが、その内容の大半は「人間の罪の歴史」と言っても過言ではないと思っています。けれども、聖書には大切なもう1つの真実があります。それは「そんな人間の罪の歴史の中にさえ、神さまの愛のまなざしがあり、神さまのみわざがある」ということです。要するに、聖書には人間の罪の歴史と、そこに働かれる神のみわざが繰り返し繰り返し取り上げられていると、このように思うのです。
 実は、このことはこれから学ぼうとしているバベルの時代も同じでした。4節によると、当時の人々は高慢になり、神さまの領域を示す「天」、その「天にまで達する塔を建てたい。そして自分たちの名をあげたい」と、彼らはそのように考えていました。ちなみに、当時の文明の特徴について調べてみたのですが、「硬いレンガの発明」と「アスファルトの使用」…、これが当時の文明の特徴であったようです。ですから、彼らは前よりもずっと頑丈な家を造れるようになり、人々は得意になって家を建て、また町をつくるようになったに違いないのです。しかし、このようにして人間中心の文明が進んでいくと、いつしか人間の心は高慢になっていくというか、「やればできるじゃないか」「今度はこれをしてみよう」「次にはあれをしてみよう」と意気込むまではよいのですが、やがては神さまの領域にまで踏み込み、ついには自分たちが神になるという大きな罪、取り返しのつかない罪を犯してしまうことにまでなっていくのです。
 ところで、こうして天にまで届く塔を建てようとした彼らでしたが、一方、神さまはというと、その様子をご覧になられ、人間の高慢さをそのまま許しておくわけにはいかず、人間の小ささや愚かさを彼らにわからせるために、ある方法を用いられました。ご承知のとおり、彼らのことばを混乱させるというのが、神さまのおとりになった方法でした。すなわち、当時、共通に語られていた彼らのことばを聞き分けにくい多くの言語に変えてしまうことによって、人間相互の意志の疎通を困難にしようとされたのです。そして、高慢な彼らの結末についてみていくと、彼らはお互いにことばの通じ合じ合わない、また心のかよい合わない間柄になってしまったことや、一致のかわりに分裂、団結のかわりに離散が起こって、ついには高い塔の建設が中止になってしまったことがわかります。要するに、人間の高慢な考えや野心的な計画は、神さまがちょっとでも干渉なさると、ひとたまりもないということです。
 いずれにせよ、私たちはここから何を学ぶことができたでしょうか。いろいろあると思うのですが、きょうは1つのことを取り上げてみたいと思うのです。それは、神さまからどんどん離れていく人間の姿といいますか、神なき人間社会の実態についてでありまして…。かつて私たちは4章のところから、大切ないくつかのことを学びました。
① 神さま抜きの人間社会は、快楽主義へ向かう傾向性があるということ。
② 人々は、ヤバルやユバル、そしてトバル・カインを先祖として、ますます神さま抜きの文化や文明を築いていくことになったということ。
③ 神さま抜きの人間社会がもたらした大きな悲惨…、それは人間の心という問題であって、人々は人のした悪を赦さず、やられたらやり返すという復讐心に傾くようになっていってしまったということ。

 要するに、当時の人間社会の大きな問題点を挙げるとすれば、それは「人間の心」という領域であって、彼らには「赦す」という心の豊かさが不足していたのです。そしてそれは、バベルのときも同じでした。彼らの問題点は心にあり、彼らには「謙遜」という心の豊かさが不足していたのです。
 では、私たちはどうでしょうか。私たちは赦すという心の豊かさを、さらには謙遜という心の豊かさを自分のものにしているでしょうか。なお、こういった心の豊かさは、神さま抜きにはありえないことを、私たちは知らなければなりません。さらには、赦す心や謙遜な心といった、こういった豊かな心を自分のものにする秘訣は、イエス・キリストにあるということを心に留めておいていただきたいのです。なぜなら、ヨハネの福音書によると、イエス・キリストは神さまと人間、そして人間と人間を結ぶ「ことば」そのものとして、世に来られたとあるからです。つまり、神さまと人間とが本当に通じ合い、また人間同士のコミュニケーションがふたたび回復されるために、イエス・キリストは来られたと聖書は教えているのです。
 なお、ことばの壁だけでなく、年齢や性別や階級や民族といったこの世の一切の壁を超えた新しい共同体の誕生を、私たちは「使徒の働き」の中に記されているペンテコステの日の出来事にみることができると思うのですが、いかがでしょうか。つまり、神の聖霊が豊かに注がれて誕生した初代教会のうるわしい交わりのことを言っているのですけれども…。願わくは、救い主イエス・キリストを仰ぎ見、彼とのコミュニケーション、つまり祈りによって高慢から守られ、また神さまの領域にまで踏み込むという愚かさからも守られながら、ペンテコステの日に誕生した初代教会のように、いよいよ心の通い合う、また温かい交わりのある教会にされていきたいものだと思うのです。

【恵みの分かち合い】
1. 神の領域にまで踏み込んでいると思われるものに、どのような事柄があるでしょうか。考えられるものを挙げてみましょう。
2. あなたにとっての「きょうの教訓」「きょうの決心」は、何ですか。

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