So-net無料ブログ作成
検索選択
前の2件 | -

マタイの福音書18:21~35 赦す心 [説教]

【聖書箇所】マタイの福音書18:21~35
【説 教 題】赦す心
【中心聖句】お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】259


 「壊れた壷は元通りにならない」。これは、どんなにか信頼し合った間柄であったとしても、あるときに決定的なひびが入ってしまうと、それを回復させるのはなかなかむずかしいことを教えていることわざです。では、一旦そうなってしまうと修復は不可能なのかというと、私たちの主イエスさまは、きょう、人間関係の回復の秘訣は「赦し」であり、しかもその赦しとは、どこまでも人を赦し続けるところの赦しであることを私たちに教えてくれています。そこで、今回は、どこまでも人を赦し続けるということについて、主イエスさまのたとえ話から学んでみたいと思うのです。
 さっそくですが、主イエスさまは、今回なぜ、このたとえ話をなさろうとしたのでしょうか。思うに、主イエスさまが人と人との関係についてお話をなさっていたときのこと、弟子のペテロから、次のような質問を受けたからではないでしょうか。21節後半。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」…。
 ご承知のとおり、日本においては「仏の顔も3度まで」という赦しに関することわざがあります。また、ユダヤ教にも「3度までは赦せ」との教えが当時ありました。ペテロはそれを「7度まで」と言えたわけですから、そういう意味では高い認識に達していた人物として評価できるのではないでしょうか。そして、それはたぶん慈愛と寛容とに富みたもう主イエスさまとの共なる生活が、彼の考え方を変えたのかもしれません。とはいえ、実のところ、ペテロは人間にとって最も大事な部分が、今だに変えられてはいませんでした。
 というのも、結局のところ、ペテロの一番の関心事は自分であって、その自分をほめてもらいたくて、主イエスさまに気に入られる解答をしたにしかすぎなかったからです。恐らく、彼は主イエスさまからこう言ってほしかったのではないでしょうか。「7度も赦すなんて、ペテロよ、あなたは何と心の広い、何と立派な弟子でしょう。あなたこそ、私の1番弟子ですよ。」と…。
 ところが、主イエスさまから返ってきた答えは、ペテロをはじめとしてそこにいた人々をびっくりさせるものでした。22節。「7度まで、などとはわたしは言いません。7度を70倍するまでと言います。」と…。では、これは490回までは赦しなさいという意味なのでしょうか。いいえ、そうではありません。主イエスさまが言われた「7度を70倍するまで」とは、「無制限に」という意味なのです。とかく、私たちは「赦す」と口では言っておきながら、心の中では人のした悪を数えていることがあります。そして、その許容度数が限界に達してしまうと、赦した回数分、いや、それを上回るほどの怒りや憎しみがどんどんと込み上がっていき、ついには倍返しをしてしまうのです。要するに、人を赦すというとき、そこに許容度数を設けてしまうと、それはもうすでに「赦し」ではなく、「我慢」になってしまっているということです。
 というわけで、主イエスさまは我慢とはまったく性質を異にするところの赦しについて、たとえをもって人々にお語りになられたのです。23節~27節。ご承知のとおり、ここにはしもべを赦した王のたとえ話が取り上げられています。ポイントをおさえて説明しますと、「地上の王」とは、神さまのことです。そして「しもべ」とは、私やあなたのことです。なお、「借金」ということばがでてきますが、これは私やあなたの罪をあらわしているとご理解いただきたいのです。
 ということは、どういうことが言えるでしょうか。そもそも私たち人間は神さまに対して罪を犯している存在だということです。では、私たちは神さまに対してどの程度の罪を犯しているのかというと、「1万タラント」とあります。実は、これは一国の王の身代金にも匹敵する大金です。ちなみに、今日の貨幣価値に換算いたしますと、約4200億円になります。たとえば、日給7000円として、このお金をつくるためには、1年365日休みなく働いたとしても、16万年以上の歳月が必要になってきます。ということは、どういうことが言えるでしょうか。私たちが一生かかっても、絶対に返済することができない巨額のお金だということです。ということで、私たちはここから、自分の罪の深さと、また神さまに対しては、到底、赦されうる存在ではないということをご理解いただきたいのです。ところがです。27節をご覧いただくと、そんな赦されがたい私たちに対して、神さまはケタハズレの愛をもって一方的に赦してくださるというのです。何という驚くべき恵みでしょう。私たちはとてつもない神の愛の対象とされているのです。一方、28節~30節においては、神さまに赦されたにもかかわらず仲間を赦そうとしない人間の姿が描かれています。しかも、「100デナリ」とありますから、これは「1万タラント」に比べたら、わずか60万分の1にしかすぎない金額です。ところが、彼は仲間のその小さな罪を赦そうとはしなかったのです。ということで、31節~35節。ここは、主イエスさまのたとえ話の結論になります。どんな結論でしょうか。神さまによって無限に赦された者は、自分の友や隣人を無限に赦すべきであるというのが、その結論です。
 こんな話があります。それは、朝日新聞が掲載した「汝の敵を愛せるか」の中で渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事)が語ったインタビューの記事なのですが…。そこには「ゆるす」という漢字が、聖書で使われている「赦す」(forgive)ではなく、許可するというニュアンスの「許す」(permit)が使われていたのです。そこで、ある牧師が朝日新聞社本社に電話して、その旨をお伝えしたところ、担当の方が「朝日新聞社・用語とりきめ」というルールでそうしたというのです。つまり、中学生レベルでも読める漢字を使用するというルールらしいのですが…。後日、牧師が調べたところ、聖書で使われている「赦し」は、現在、中学校で習う常用漢字として規定されていることがわかって、再度電話をし、懇願したところ、丁寧に対応してくれたということでした。
 なお、この牧師が心配していたのは、漢字の使われ方しだいで、キリストの教えが誤解、曲解され、聖書そのものが歪曲、誤解されてしまうということでした。つまり、聖書の「赦し」の意味は、人の罪を見て見ぬふりをすることではなく、相手を罰したいという欲求を手放して、すべてを神の御手におゆだねすることなのだと言っていました。
 多くの教会では、礼拝の中でイエスさまが教えられた主の祈りを唱えており、その中には「我らに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」があります。また、聖書の中には、多くの「赦し」に関する教えがあり、今回の中心聖句もその1つです。私たちは自分自身が聖なる神の御前に、本来であれば、赦されざる者です。しかし、十字架における神の御子イエス・キリストの身代わりの死を知って、自らの罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じる者には、キリストの血に免じて、罪の赦しが与えられると約束しています。そうです。赦されるはずのない私が、イエスの血に免じて、赦していただけるというのが「よき知らせ」、つまり「福音」なのです。
 そして、神さまによって無限に赦された者である私たちとしては、自分の友や隣人を無限に赦すべきであるということが、神さまのみこころであることを知っているがゆえに、そうしていこうと信仰を働かせるわけです。そして、そのような中で葛藤もあるでしょうが、ついに赦しの選択ができると、人を赦すことで、実は、自分が解放され、自由にされ、その人自身の輝かしい歩みが前進していくのです。要するに、赦しは神の祝福なのです。


【恵みの分かち合い】
1. 「許すこと」と「赦すこと」、その違いは何ですか。
2.あなたは罪の赦しを確信していますか。エペソ1:7やⅠヨハネ2:12などから、どんなことがわかりますか

nice!(0) 

マタイの福音書13:1~23 みことばへの正しい態度 [説教]

【聖書箇所】マタイの福音書13:1~23
【説 教 題】みことばへの正しい態度
【中心聖句】ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。(マタイ13:23)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】341


 皆さんにお尋ねいたしますが、聖書のお話を聞くとき、どんな心で聞いていらっしゃるでしょうか。いつもよく聞いている。途中で飽きてしまう。聞きながら他のことを考えてしまう。すぐに忘れてしまう。聞いても実行しない。中には、疲労こんぱいで「聞くことさえ困難」という方もおられるかもしれません。きょうは、イエスさまがお語りになった「種まきのたとえ」から、私たちにとって大切な「みことばへの正しい態度」ということを学びます。
 さっそくですが、ある日のこと、イエスさまはガリラヤ湖の岸辺に群がる大ぜいの群集に向かって、舟の中からひとつのたとえ話をなさいました。皆さんよくご存知の「種まきのたとえ」です。実は、その頃のイスラエルの種まきには、大きく分けて2つの方法がありました。1つは、画家のミレーが描いた「種をまく人」という作品にもあるとおり、種を入れた袋を肩にかけると、農夫自身が手でばらまき歩くという方法です。もう1つは、種の入った袋にあらかじめ適当な穴をあけておき、それをロバの背にのせて歩かせるという方法ですが、ロバが歩くその振動で袋の中の種が自然にこぼれ落ちるという単純なしくみになっていたわけです。いずれにせよ、種はこうして風に吹かれて、いろいろなところへ飛び散っていったと、イエスさまはそのようにお話を展開していったのです。
 さて、イエスさまによると、ある種は人の歩く道ばたに落ちました。するとその種は、芽を出さないうちに鳥が飛んできて食べられてしまったというのです。また、別の種は土の少ない岩地に落ちました。すると、その種はすぐに芽を出しましたが、土が薄いために水分や養分を根から吸収することができず、太陽の熱ですぐに枯れてしまったというのです。また、別の種はいばらの生えているところに落ちました。すると、その種はすぐに芽を出しましたが、いばらの方がどんどん成長するので邪魔をされてなかなか成長できずにいたというのです。しかし良い地に落ちた種は、すくすく伸びて、やがて季節がくると、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍もの実を結んだというのです。
 さて、イエスさまはこのようなたとえ話をなさってから、弟子たちにその意味を説明してくださいました。18節から23節。ここからもわかりますように、まかれた種とは「みことば」のことです。神さまは、愛の種、救いのみことばをまいていらっしゃいます。世界中、至るところにまいていらっしゃるのです。ところが、種がまかれた4種類の土地とは、どうやらそれは「みことばを聞いた人々の心の状態」をあらわしているようです。
 そこでまずは、「道ばた」ですが…。道ばたとは、どういう人々のことをさしているのでしょうか。思うに、それは踏み固められたかたくなな心。つまり、みことばに対して心を閉ざしている人々のことをさしているのではないでしょうか。ご承知のとおり、イエスさまの時代、パリサイ人や律法学者と言われている人たちがいましたが、残念ながら、彼らのうちの多くは、イエスさまのお話に対して心を閉ざしていました。なぜでしょうか。それは、イエスさまへの偏見、あるいは誤解といったようなものがあったからです。
 では、私たちはどうでしょうか。たとえば、私たちの中にキリスト教に対する偏見、あるいはイエスさまに対する誤解…。そういったものはないでしょうか。いずれにいたしましても、そういった人々の心の中には、みことばの入る余地がありません。ありませんから、結局のところ、悪い鳥にたとえられているサタンが来て、まかれたはずの愛の種、救いのみことばを奪い取っていってしまう…。こういうことになるわけです。
 さて、次は「土の少ない岩地」ですが…。岩地とは、どういう人々のことをさしているのでしょうか。思うに、それはみことばに対して少しだけ心が開かれている人々のことをさしているのではないでしょうか。ただし、飽きっぽいと言うか、熱しやすく冷めやすいので、いざとなると隠れていた自己中心や自己主張が出てくるというのが、この岩地の特徴です。
 どういうことかというと、たとえば彼らはキリスト教が「きらい」ではありません。むしろ、礼拝の雰囲気が好きで、賛美のムードがたまらなかったりします。けれども、根を深くはることができないというか、根を深くはることができないので、いのちがやってこないのです。ですから、せっかく芽が出てきても、この世の炎熱にやられてしまったり、いざとなると、愛し、信じ、従ってきたはずのイエスさまからサーッと身を引いてしまったりする…、これが土の少ない岩地の心なのです。
 では、「いばらの中」とはいったいどういう人々のことをさしているのでしょうか。思うに、それはみことばに対してかなり心が開かれている人々のことをさしているのではないでしょうか。ただし、この世の富や名誉や快楽という誘惑に弱いというのが、このタイプの特徴です。すなわち、彼らは福音を信じています。聖書も一応は読んでいます。祈ることだってしています。しかし、この世の富や名誉や快楽という誘惑に勝てないのです。さらには、みことばを聞いても、それを家庭や職場や学校で生かそうとしないし、また実際に生かすことができないのです。
 なぜでしょうか。彼らはなぜ誘惑に負け、みことばを実行する人になれないのでしょうか。思うに、それは心の中の肉の欲望といういばらが盛んに伸びてきては邪魔をしてくる…。邪魔をしてくるので、いつまでたっても実を結ぶことができないのです。けれども、もしそうであるなら、その人は次のように祈るべきではないでしょうか。「神さま。私のクリスチャン生活に喜びがなく、勝利がないとするなら、それはあなたとの交わり以上に、この世の富、この世の名誉、この世の快楽を愛してきたからです。どうぞお赦しください。私は今、あなたの聖霊に導かれることを切に求めています。ですから、どうぞ聖霊に満たしてください」と…。
 要するに、私たちの側の努力には限界があるわけですが、しかしながら悔い改めをもって神さまに近づき、祈り求めるなら、神さまが私たちの心を耕してくださるのです。邪魔な石ころやいばらを取り除いてくださるし、掘り起こされたやわらかい心にもしてくださるのです。
 そこで最後は「良い地」ですが、良い地とはどういう人々のことをさしているのでしょうか。思うに、それはみことばに対して心がオープンになっている人々をさしているのではないでしょうか。すなわち、素直に求める心、心の奥深くにまで福音を受け入れ、日光も雨も充分に吸い込む心…。こういった心の状態であるならば、やがて季節がくると、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍もの豊かな実を結ぶことができると、主は言われるのです。
 さて、イエスさまはこのたとえ話を通して、弟子たちの心がそのような良い地となるよう願われました。そしてこのことは今日も同じです。イエスさまは、ご自身を愛する者の心が良い地となるよう願っておられるのです。願わくは、オープンな心でみことばを聞き、愛と救いの種を人々のところに持ち運ぶ器にされていきたいものだと思うのです。そして、そのためには悔い改めと聖霊の満たしを祈り求めていきたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1.最近、ガーデニングが盛んになりました。そこで、良い花や良い実をならせる秘訣などありましたら、分かち合ってみましょう。
2.「下に根を張り、上に実を結ぶ」(イザヤ37:31)とのみことばがありますが、信仰の成長の鍵は何であると思いますか。
3.あなたにとってのきょうの教訓、きょうの決心は何ですか。

nice!(0) 
前の2件 | -