So-net無料ブログ作成
検索選択
前の2件 | -

創世記4:1~9 カインとアベル [トップ]

【聖書箇所】創世記4:1~9
【説 教 題】カインとアベル
【中心聖句】人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。
(箴言21:2)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】251


 昔、こんな事件がありました。姉が妹を包丁でめった刺しにして殺すという事件です。しかも、はじめの報道では妹は部屋に侵入してきた男性によって殺害されたと、姉はそのように証言していました。つまり、彼女はウソをついていたのです。しかし、事の重大さに気づいたのでしょう。まもなく彼女は自分がやったことを自供します。そして、殺人の動機が明らかになったわけですが、彼女によると、明るい性格の妹がとても妬ましかったというのです。何ともやるせない事件ではないでしょうか。
 また、こんな事件もありました。弟が酒に酔った兄を生き埋めにして殺すという事件です。しかも、その殺人の動機は、酒に酔って暴れまくる兄が憎らしかったからというのです。兄が憎らしいからといって、生き埋めにして殺すとは何ともむごたらしい事件ではないでしょうか。
 さて、聖書を開きましょう。きょうのところには、人類最初の殺人事件となった記事が取り上げられています。ご承知のおとり、罪のためにエデンの園を追われてしまった最初の人アダムとその妻エバとの間に、やがてふたりの男の子が与えられました。ひとりの名はカインで、もうひとりの名はアベルと言うのですが、やがて彼らが成長すると、兄のカインは土を耕す者に、一方、弟のアベルは羊を飼う者になっていきました。
 ところで、3節と4節をご覧ください。ふたりはここで、各々、その職業にふさわしい収穫感謝のささげ物を神さまにささげました。何をささげたかというと、兄のカインは農耕をしていたので地の作物を神さまにささげました。一方、弟のアベルはというと、彼は牧畜をしていましたから彼の羊を神さまにささげたのです。しかし、どうしたというのでしょう。神さまは弟アベルのささげ物には目を留められたのですが、兄カインのささげ物には目を留められなかったというのです。
 はたしてこの場合、カインの何が問題だったのでしょうか。ささげ物の種類が問題だったのでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、4節と5節のところで、「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」と言われているように、神さまはささげ物に目を留められるよりも以前に、ささげている人自身に関心をお持ちでいらっしゃったのです。
 そのようなことを踏まえながら、もう1度、3節と4節を注意深く読んでいただきたいのですが…。そうすると、カインのささげ方が極めて事務的であったのに対して、一方のアベルの方は心からのささげ物であり、また信仰からくるささげ物であったことがおわかりいただけるのではないでしょうか。すなわち、カインの方は「地の作物から主へのささげ物を持って来た」とだけしか記されていないのに対して、アベルの方は「彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」と、このように記されているのです。要するに、神さまがご覧になられたのは、何をどれくらいささげたかではなく、むしろその人がどんな心で、あるいはどんな態度でささげたかということだったことがわかるのです。
 さて、5節の後半と6節をご覧ください。ここには、カインの怒りや憤りについてが取り上げられています。なお、新約聖書エペソ人への手紙4:26~27では、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」とあるのですが…。何とも悲しい現実として、カインは怒りや憤りといった感情をすみやかに処理することができないでいたのです。そればかりではありません。このとき彼は、神さまからの語りかけを耳にしていたにもかかわらず、その御声に耳をかそうとしないで、かえって人の弱さにつけ込んできたサタンの声に引きつけられ、ついには弟のアベルを野に連れ出しては不意を突き、彼を殺してしまったのです。しかも9節に至っては、悔い改めのチャンスが神さまから与えられていたにもかかわらず、せっかくのチャンスを彼は拒否してしまうのです。さらに残念なことには、「俺は弟の番人なんかじゃない」と言っては、駄々っ子のようにふてくされてもしまうのです。
 さあ、そこで私たちも考えてみたいと思うのですが、罪を犯してしまったカインにとって大切なことは、いったい何だったでしょうか。思うに、それは神さまの前に正直に出るということだったのではないでしょうか。「しまった。」…、「見破られたか。」…、「実は、そのー。」…、そういった逃げ腰の態度ではなく、「神さま。ごめんなさい。どうぞお赦しください。」と心からおわびをする潔い態度で神さまの前に出ることが大事だったように思うのです。要するに、ウソをつくのでもなく、いいわけをするのでもなく、またふてくされてしまうのでもなく、正直に神さまの前に出て、「神さま。私がやりました。どうぞお赦しください。」を言えるかどうか…、カインだけでなく、このことは私たちのこれからの信仰生活にとっても大きな分かれ目になってくると思うのです。
 というわけで、私たちはきょう次の2つのことをカインから学びました。第1に、極めて事務的な信仰を神さまはお喜びにはならないということ。第2に、心からの悔い改めがない信仰ほど、神さまから遠いものはないということです。きょうは、こういったことを心に留めながら、「喜びや感謝をもって主を礼拝する信仰」、さらには「悔い改めに導かれやすい素直な信仰」を自分のものとしていきたいと思うのです。実に、主は、金の器でもなければ、銀の器でもなく、へりくだった、きよめられた器を用いて、ご自身のみわざを進めていかれるのです。

【恵みの分かち合い】
1. 私たちが神の前に正しく歩むために、カインから学ぶことができるのはどんなことですか。
2. あなたのきょうの祈りは、どのようなものになりますか。お互いに分かち合ってみましょう。

nice!(0) 

創世記3:8~24 罪の結果 [説教]

【聖書箇所】創世記3:8~24
【説 教 題】罪の結果
【中心聖句】キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。(Ⅰヨハネ3:5)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】437

創世記3章の前半には、神さまによって定められた道を踏みはずしてしまったアダムとエバについてが取り上げられています。すなわち、サタンの実に巧妙な誘惑に会い、ことばたくみな誘惑を受けたアダムとエバが、少しずつ誘惑に陥り、ついには罪を犯してしまったことが記述されているのです。なお、今回はそんな彼らのその後について…。すなわち、彼らの罪の結果が何であるのかについてが取り上げているので、そこをみていきたいと思うのです。

本論1.彼らが罪を犯した結果は、「死」である。
 さっそくですが、彼らが罪を犯した結果は、人間にとって死が現実のものになったということを、最初に申し上げておきたいと思います。しかも、人間の「死」について、聖書はそこに次の3つの意味を含ませています。
 第1は、「霊的な死」ということ。すなわち、堕落する以前の彼らにとって、神さまとの交わりというのは、ごくごく自然なものでした。彼らは、神さまの愛を素直に受けとめていたのです。ところが、罪の結果はどうなったでしょうか。8節で、彼らは「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。また、10節では「恐れて、隠れました」とあるように、アダムとエバにとっては、今まで自然であった神さまとの交わりが不自然となり、こうして神さまとの関係がしっくりいかなくなってしまったのです。そればかりではありません。神さまとの関係がしっくりいかなくなっていくと、今度はアダムとエバとのお互いの関係もしっくりいかなくなっていってしまったのです。11節から13節。要するに、神さまに「ごめんなさい」が言えない彼らは、お互いに責任のなすり合い(責任転嫁)をするようになっていってしまったのです。
 いずれにせよ、このような神さまとの断絶状態にあることを聖書では霊的な死と言っているのです。たとえば、皆さんは、確かに鼻で息をし、また3度の食事をとっているかもしれません。しかし、神さまを神さまとしてあがめず、感謝もせず、その生活に喜びがない、また生きがいがないとすれば、それこそあなたは霊的に死んでいると、聖書はそのように言っているのです。
 続いて第2は、「肉体の死」ということ。これについては、説明するまでもありません。誰もがよく知っている死、つまり生命活動の停止を意味しているわけですが、もっと正確にいうなら、魂が肉体から離れることを聖書ではそれを肉体の死と言っているのです。最初に申し上げたとおり、罪の結果、アダムとエバは霊的には死んだものとなってしまいました。なお、それだけではなしに肉体的には死につつあるものともなってしまったのです。たとえば、このことは花瓶にさしてある花を例にとるとわかりやすいのではないかと思うのですが、確かに、花瓶にさしてある花は最初はとてもきれいです。しかし、しばらくするとシュンとなり、タランとなり、ついには枯れてしまうのです。なぜでしょうか。それは、根がないからです。根がないために、そこにいのちがやって来ないのです。
 なお、聖書の中には霊的な死や肉体の死の他に、もう1つの死があることを教えています。それは何かといえば、聖書ではそれを「第2の死」(黙示21:8)と言っているわけですが、「永遠の刑罰」(マタイ25:46)とも言われています。すなわち、いのちの書に名前の記されていない者はみな、終わりの日に、サタンと悪霊たちとともにそこに投げ込まれてしまうというのです。しかも、それは「永遠の死」ということなのです。

本論2.彼らが罪を犯した結果は、「苦」である。
 ところで、彼らが罪を犯した結果は死であるということをみてきたわけですが、2つめとしては、人生における苦しみということを挙げることができます。たとえば、エバですが、彼女の場合、出産の苦しみということが言われています(16節)。さらには、夫の支配からくる苦しみということも言われています(16節)。要するに、彼女は精神的にも、肉体的にも、苦しんで子を産み、また育てていかなければならなくなりました。そればかりではありません。彼女は人格的な愛を夫に求めるのですが、夫は力によって彼女を支配しようとしてくるというのです。
 一方、アダムの場合はどうかというと、彼には労働の苦しみということが言われています。どうぞ、17節から19節をご覧ください。そこには、次のようにあります[読む]。いかがでしょうか。今日の私たちにも多かれ少なかれ同じような苦しみがあるのではないかと思うのですが、残念ながらそれは人間の罪の結果なのです。

本論3.彼らが罪を犯した結果は、「呪」である。
 さて、罪の結果は死であり、苦しみであるということをみてきたわけですが、3つめとしては、人間の罪が自然界にも悪影響を与えているということを挙げたいと思います。どうしてそういうことが言えるのかというと、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」と、17節で神さまがそう言われるからです。すなわち、自然界は人間の罪によって被害をこうむるものとなってしまったのです。しかもその深刻さは、21世紀を迎えた今日ほど明かな時代はありません。私たちは、「地球の温暖化」「フロンガスによるオゾン層の破壊」「酸性雨」「熱帯林の破壊」「放射能」といったようなことばを聞く機会が増えたと思うのですが、今日、地球環境はもはや危機的状態にあるということを多くの学者が指摘しているのです。

本論4.3:21に見ることができる神の保護
 しかし、そのような中で注目したいのは3:21です。そこを見ると、罪ある人間のために備えられた愛の保護といいますか、人の裸を覆うために、神が皮の衣を作って人に与えてくださったということを覚えたいと思うのです。つまり、人が保護されるために、動物の犠牲というか、血の注ぎがあったということです。そして、私たちからするとそれはイエス・キリストの十字架を思い出すのです。イエス・キリストは、きょうの中心聖句にもあるとおり、罪を取り除くために、この地上に来てくださいました。私たちではどうすることもできない死の問題や苦しみの問題から私たちを解放するために、救い主は来てくださったのです。そればかりではありません。人間の罪の悪影響を受けてしまった自然界…。聖書によれば、その自然界はやがて新たにされるとあります。要するに、人間が再び自然との調和の中で生きることができるようになるために救い主は来られたというのです。

私たちは、十字架の上でご自身の血を注ぎ出して救いを完成してくださったイエス・キリストの愛をきょうも覚えたいと思うのです。

nice!(0) 
前の2件 | -