So-net無料ブログ作成
検索選択

出エジプト記3:7~15 神の民の定義 [説教]

【聖書箇所】出エジプト記3:7~15
【説 教 題】神の民の定義
【中心聖句】私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。(ホセア書6:3a)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】427

クリスチャンとは何ぞや?」…、この問いかけに対して、皆さんはどんな答えを返すことができるでしょうか。たぶん、いろいろな答えが返ってくるだろうとは思うのですが…。ある本によると、クリスチャンを次のように定義していました。すなわち、「聖書に出てくる神はどのような方で、どのような属性を備え、どのようにして人に働きかけておられる方なのか、それらを絶えず考え、答えを探し求めているのがキリスト教徒である。」(『神の名とその意味』ネーサン・ストーン著、p.189)と…。
 私はここを読んで、本当にそうだなと思いました。クリスチャンというのは、聖書の神を知り、また聖書の神を知り続ける者なのだと思わされたのです。ホセア書6:3に「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」という聖句があるのですが、私たちクリスチャンは自分の生涯をかけて主なる神を知るというか、知的にも体験的にも神をわからせていただく存在なのだと、そのように思わされたのです。
 ところで、きょうの聖書箇所ですが、ここを読むと、聖書が教えている神がどのようなお方なのか、そのいくつかをうかがい知ることができますので、ごいっしょにみていきたいと思うのです。そこでまずは7節。ここを読むと、エジプトで苦しむ神の民に対し神は無関心なお方ではなかったというがわかるのではないでしょうか。なぜなら、「わたしは見た」「聞いた」「知っている」とあるように、神はその民の悩みに目をとめ、彼らの叫びに耳を傾け、また彼らの痛みを自分の痛みとして受けとめておられるからです。そればかりではありません。エジプトで苦しむ神の民を何とかして救い出したい。そして、乳と蜜の流れる良い地に彼らを導き上らせたいと心に願われた神が、今度はそれを実際に行動に移されるお方でもあられるということが、8節からわかるからです。
 要するに、「あわれみの深い神」は「行動する神」でもあられるということです。そして、ここからの私たちへのメッセージは何かといえば、現代に生きる私たちに対しても、まことの神は決して無関心なお方ではなく、あなたや私の悩みにも目をとめ、あなたや私の叫びにも耳を傾け、またあなたや私の痛みさえも自分の痛みとして受けとめてくださる…、何とも「あわれみの深い神」であられるということ。さらには、私たちの救いのためには「いの一番に行動される神」でもあられるということです。
 続いて10節からですが、ここからは「遣わす神」であるということがわかるのではないでしょうか。というのも、エジプトで苦しむ神の民に対して、神はこのときモーセをお遣わしになられたからです。ご承知のとおり、聖書の中には神から遣わされた人物がたくさん登場してきます。たとえば、ある時代、神はギデオンをお遣わしになられました(士師6:14)。またある時代にはサムエルをお遣わしになられました(Ⅰサム16:1)。ある時代にはイザヤを(イザヤ6:8)、ある時代にはエレミヤを(エレ1:7)、ある時代にはエゼキエルを(エゼ2:3)、またある時代にはゼカリヤを(ゼカリヤ2:9)神はお遣わしになられたのです。しかも、人類にとって最も大きな出来事といえば、それは神が全人類の救いのために御子イエス・キリストをお遣わしくださったということではないでしょうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16・17)とのみことばがありますが、聖書の神はこのように「派遣する神」でもあられるのです。なお、毎週の礼拝式において私たちは祝祷を受けますが、この祝祷はこの世へと派遣されていくための祝福の祈りであることをご存じだったでしょうか。そうです。私たちは祝祷をもってこの世へと派遣されていく神の民であり、私たちはその祝福を持ち運ぶためにこそ、この世へと派遣されているということを心に留めておいていただきたいのです。なおこれはお願いですが、祝祷のあとの「アーメン」は、この世へと派遣されていく神の民であるとの自覚をもって、なるべく力強く「アーメン」と言っていただけたら何より感謝であります。
 続いて12節からですが、ここからは「ともにおられる神」であるということがわかるのではないでしょうか。というのも、神がモーセを遣わすにあたって、大切な1つの約束をしてくださっているからです。その約束とは「わたしはあなたとともにいる」という、もうこれ以上の安心はないというくらいの約束でした。しかも、この約束はモーセだけのものではありません。この約束は私たちのものでもあるのです。なぜなら、聖書にこうあるからです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)と…。また、次のようにも言われているからです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と…。
 いかがでしょうか。神が共におられる。神が私といっしょにいてくださる…。これ以上の安心が他にあるでしょうか。こんな話があります。ある夜のこと、ひとりの人が夢を見ました。浜辺づたいに主とともに歩いているという夢です。ふと空を見上げると、これまでに通過してきたシーンが1つ1つ写し出されてきました。そしてその1コマごとに砂の上にはふた組の足跡があることがわかりました。1つは彼のものであり、もう1つは主のものです。さて、彼の生涯のラストシーンが写し出されたとき、彼は砂地に延々と続く足跡を振り返ってみました。ところが、彼の通ってきた道筋にはしばしば足跡がひと組しかありませんでした。そのことがとても気になったので、彼はそばにおられる主に尋ねてみました。「主よ。あなたはいったん私があなたに従うことを決心したら、いつも私とともに歩くと約束なさいました。ところが、これまでの私の生涯の最も苦しかったところには、ひと組の足跡しかありません。私がこの上なくあなたを必要としていたとき、どうして私をひとりで放っておかれたのですか。」と…。すると、主はこのように答えられました。「かけがえのない大切なわが子よ。私はあなたを愛しているので、一度もあなたから離れたことなどない。あなたが試練に遭って苦しんでいたとき、あなたの目にはひと組の足跡しか見えなかったかもしれない。しかし、実はあのとき、私があなたを背負っていたんだよ。」と…。
 最後になりますが、14節をご覧ください。ここには「テトラグラマトン」、もしくは「神名四文字(もしくは神聖四文字)」とも言われている大切な神ご自身のお名前が記録されています。日本語ではそこを「わたしはある」(新改訳、新共同訳)、「我はありてある者」(文語訳)、と訳しているようですが…。ともかくも、神の名はヘブル語で「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」とか呼ばれている神であり、その意味するところは「存在の根源」とか、もしくは「時間的には永遠、空間的には無限」とか…、神とはそもそもそのようなお方であられるということです。
 いずれにいたしましても、私たちはきょう、あわれみの深い神は行動する神でもあられ、この神が私たちと共におられて私たちを遣わし、求める人々の心を愛で満たし、また生きる力を与えてくださるお方として存在しておられる永遠・無限の神であられるということをみてきたわけですが…。願わくは、本日の中心聖句ホセア書6:3が教えているみことばのとおりに、日々、神を知る信仰の旅を続けていくお互いでありたいと思うのです。

【恵みの分かち合い】
1. あなたなりにクリスチャンを定義すると、どうなりますか。
2.聖書にはどのような神の名称がありますか。いくつか挙げてみましょう。

nice!(0) 

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。