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出エジプト記7:1~7、12:29~42 神の民の聖別 [説教]

【聖書箇所】出エジプト記7:1~7、12:29~42
【説 教 題】神の民の聖別
【中心聖句】知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4:3)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】 1


 復習になりますが、出エジプト記2章において私たちは「神の民の指導者」として神から特別な召しを受けたモーセについて学びました。すなわち、80歳のとき、彼は神から特別な召命を受けたのです。どんな召命でしょうか。「エジプトで苦しむイスラエルの民を救うために、お前が立ちあがれ」との召命を受けたのです。では、彼はそれに応えてすぐに立ち上がることができたのかというと、彼は尻込みをしてしまったのです。というのも、指導者として自分が力不足であることを彼自身よくわかっていたからです。とはいえ、神が望まれたのは、自分の力不足のゆえに一歩後退してしまうということではありませんでした。むしろ、「我の無能、されど神の全能」といいますか、「神は全能であられるがゆえに、必要な助けは神から来る」との信仰に立って一歩前進してほしかったのです。そのため、神はモーセを何とかしてなだめ励ましていくと、ようやくのこと、彼はエジプトで苦しんでいる同胞の民を助け出すために自ら立ち上がることができたのです。
 なお、7章から12章のところでは、こうして神に励まされたモーセがいよいよ兄アロンと共にエジプトの王パロと対決する場面になっていきます。はたしてその内容はというと…。まず、モーセとアロンがエジプトの王パロのもとへと出向いて行くと、彼らは王に向かってこう訴えるのです。「わが民を去らせよ。そして荒野で祭りをさせよ。さもなくば、イスラエルの神があなたの上に災いをくだすであろう」と…。しかし、エジプトの王パロはそのようなことで動揺するきゃしゃな王ではありませんでした。鼻先でフフンと笑うと、「イスラエルの神に、そんな力があるだろうか」と言い放つのです。そこでモーセはアロンに命じて、彼が手にしている杖を投げさせると、その杖は蛇の姿となり、身をくねらせながら王の足元にまで這い寄って行ったのですが、王はそれでも動揺しませんでした。かえって、家臣に命じてエジプト人の呪法師を連れて来させ、同じことが我々にもできることをして見せては、モーセたちをあざ笑ったのです。ところがです。モーセの蛇が呪法師の蛇をのみ込んでしまったときには、一瞬、王の顔色が変わりました。けれども、だからといって降参するような王ではなかったのです。
 さて、あくる朝のことです。モーセがナイル川の岸にやって来ると、エジプトの王パロとその家臣たちに出会ったものですから、モーセは王に向かって言いました。「王よ。あなたはなぜ私の願いを聞こうとしないのか。あなたの前で蛇に変わったあの杖は、神の杖である。これでナイル川の水を打つと、川の水は血に変わって臭くなり、飲むことができなくなる。それでもよいのか」と…。しかし、王は聞く耳をもっていませんでした。そこで、モーセとアロンが王とその家臣たちの目の前でナイル川を杖でたたくと、ナイル川は見る間に真っ赤な血に変わっていったではありませんか。ところが、王はそれでも彼らの言うことを聞こうとせず、かえってその心をかたくなにしていったのです。
 なお、一週間が過ぎ、再び王のもとへと出向いて行くと、モーセは言いました。「王よ。あなたはまだイスラエルの神の偉大さを悟らないのか。あなたがわが民を去らせず、祭りをさせないなら、今度はエジプト全土をカエルが襲うであろう。カエルは大群となり、あなたの王宮にまでも入り込むであろう」と…。すると、王は強がって言いました。「できるものなら、やってみるがよい」と…。ところが、さすがの王もカエルの大群を見たときには大変に驚きました。窓という窓、戸という戸を堅く閉じたにもかかわらず、カエルは王宮の中に入り込み、寝室のベッドにまで入り込んできたからです。たまりかねた王は、カエルを取り除いてほしい一心からモーセに懇願します。「カエルを何とかしてくれ。そうすれば、イスラエルの民を行かせる。祭りもさせる」と…。しかし、カエルがいなくなってしまうと、王は手のひらを返したように、モーセとの約束を撤回してしまうです。
 そのため、神は次々とエジプトに災いをくだしていきました。ブヨを起こし、アブを起こしてはエジプト全土を襲わせました。家畜を疫病にかからせ、人にも獣にもうみの出る腫物を起こしては彼らを悩ませました。雷や雹、さらにはイナゴの大群が彼らの作物に大打撃を与えました。さらには3日間にも及ぶ暗闇の到来が彼らを苦しめたりもしたのです。なお、このようにして次々と襲ってくる災いに対して、王はそのたびごとに悲鳴をあげ、「国内なら」(8:25)、「近くなら」(8:28)、「男だけなら」(10:11)、「羊と牛を残しておくなら」(10:24)と言っては譲歩したりもしてくるのですが、災いが過ぎ去ってしまうと、手のひらを返したように、彼は平気で約束を破っていったのです。
 そのため、とうとう決定的な災いがエジプトにくだることになりました。エジプト中の初子という初子を、人であろうが家畜であろうが、ことごとく打つという神のさばきがくだることになったのです。けれども、この恐ろしいさばきに先立ち、神は「逃れの道」を備えておられたのであるということが、きょうの学びの大事な部分になります。すなわち、逃れの道とは「傷のない子羊をとり、これをほふって肉を食べ、その血は家の入口にある2本の門柱とかもいに塗る」というものであり、神はその血を見て、その家を過ぎ越してくださるというのです。それにしても、神のさばきが現実のものとなってしまうときがいよいよやって来ました。その夜、エジプト中の初子という初子のすべてが打たれてしまったのです。そのため、家という家から激しい泣き叫びの声があがってきました。ところが、血のしるしのあるイスラエルの家だけは、確かに、これを免れることができたのです。というのも、血のしるしのあるところを神が過ぎ越してくださったからです。ご承知のとおり、これがいわゆる「過ぎ越しの祭り」の発端であり、ユダヤ人はこのときの解放を記念して、今もなおこの祭りを行なっているわけです。
 なお、「過ぎ越し」ということを考えるとき、この解放の出来事は、今日の私たちにとってはイエス・キリストの十字架へとつながっていきます。なぜかといえば、イエス・キリストご自身が全人類にとっての真の過ぎ越しの子羊となられたからです。事実、バプテスマのヨハネはその先駆者として、イエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の子羊」として人々に紹介しました(ヨハネ1:29)。一方、イエスご自身はというと、まさにそのとおりに、全人類にとっての真の過ぎ越しの子羊として、十字架の上でありったけの血を流してくださったのです。そうです。罪のないお方が私たちの罪を代わりに背負って十字架の上で血を流してくださいました。私たちはその尊い犠牲のゆえに決定的なさばきに会うことがなく、今や「罪からの解放」というすばらしい救いをいただくことができる者とされているのです。そして、現在の私たちはというと、私たちのために裂かれた主のからだ、そして流された主の血潮…、それを聖餐式というかたちで、その救いの恵みを味わっているのです。そのような意味で、私たちは今後とも、礼拝式における主のことばと主の聖餐というものを大事にしていく群れでありたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. エジプトにくだった10の災いについて、調べてみましょう。
2. 「過ぎ越し」がキリストの型であることを、エペソ1:7、ヘブル9:12~14、ヘブル9:22などから確認しましょう。

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