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出エジプト記15:22~16:3 神の民の不信仰 [説教]

【聖書箇所】出エジプト記15:22~16:3
【説 教 題】神の民の不信仰
【中心聖句】すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2:14)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】340


 「つかの間の喜び」というと、皆さんは、どんなことを思い出すでしょうか。ご承知のとおり、本書の前半ではエジプトにおける奴隷生活や過酷な労働から解放され、ようやくのことで自由を手にすることができたイスラエルの民についてが取り上げられています。ところが、それはつかの間の喜びでしかなかったというのが、きょうのところになります。というのも、第1の試練がさっそく彼らにやって来たからです。
 では、第1の試練とはいったい何だったでしょうか。それは、旅する者にとっては非常に重要な飲み水の問題でした。何と、彼らが持って来た貴重な飲み水がすでに底をついてしまったのです。おまけに、彼らは荒野に水を探すのですが、どこを探してもそれらしきものを発見することができずにいたのです。そして、何よりも彼らを失望落胆させたのは、マラというところで彼らはようやくのこと泉を発見するのですが、その水はにがくて飲料には適していなかったのです。そのため、数日前のあの大いなる感謝と喜びが、たちまちのうちに指導者モーセへのつぶやきへと変わっていったのです。
 一方、彼らが導かれた次の場所エリムは一転して恵みの場所となりました。なぜなら、そこには12の水の泉と70本のなつめやしの木があり、彼らはようやくのこと、そこで水を飲み、ゆっくりとからだを休めることができたからです。荒野を旅する旅人にとって、まさにそこはオアシスだったのです。
 なお、このことを今日の教会にあてはめてみると、地上にある教会は人生の荒野を旅する旅人にとっての心のオアシスではないでしょうか。すなわち、心のやすらぎがあって、ホットできる…。そんなところではないかと思うのです。そして、特に注目したいのは、そこには70本のなつめやしの木があったということです。すなわち、その木は高さが15メートル以上、大きいものだと30メートル近くにもなる幹のまっすぐな背の高い木でした。しかもその先端には巨大な葉がまるでふさ飾りのように生い茂っていました。ということは、どういうことが言えるでしょうか。旅人は遠くからでもそれを目にすることができ、荒野を旅する旅人にとっては、このなつめやしの木が目印となって、そこに行けばオアシスがあるということをいち早く発見することができたのです。
 そこでいかがでしょうか。このなつめやしの木は、「私たちクリスチャン」をさしてはいないでしょうか。そして、人生の荒野を旅する旅人は私たちクリスチャンが生き生きしている姿を見て、導かれるようにしてオアシスへと足を運ぶようになるというか…、クリスチャンとは「人生の荒野を旅する旅人をオアシスへと導くところのなつめやしの木のような存在である」ということを覚えたいと思うのです。なお、私たちがそのような存在となるためには、何よりもまず私たち自身が、神のことばによって、日々、養われ、育てられ、またうるおされていなければなりません。そこで、15:27にある「12の水の泉」が重要になってくるわけですが…。ご承知のとおり、この「水の泉」とは「私たちにいのちを与えてくださる神さま」をあらわしています。そして、この神さまのもとでいつも憩い、またあふるるばかりのいのちを注いでいただき、私たちはこのようにしてなつめやしの木としての役割を果たしていくことができるのです。
 さて、次にご覧いただきたいのは16:1からです。エジプトを出てから約1カ月が過ぎた頃、イスラエルの民はシンという荒野にやって来ました。実は、彼らはここでも厳しい荒野の現実に直面することになるのです。すなわち、旅の疲れや砂漠の暑さもさることながら、彼らにとっては大切な食料がもう底をついてしまったというのです。おまけに、彼らにとっては旅の終わりがいつであるのかさえわからないわけですから、果てしなく続く過酷な荒野の旅が、どれほど彼らを底知れぬ不安に陥れたかわかりません。とはいえ、私たちもそうなのですが、よくよく注意しないと、イスラエルの民と同じような愚かなこと、信仰的でないことをしてしまう3つのことが、2節と3節のところに記されてあります。
 ①つぶやきということ。ご承知のとおり、イスラエルの民はマラというところで「飲み水がない」と言ってはモーセにつぶやきました。そして、ここにきて今度は「食べ物がない」と言っては、モーセやアロンにつぶやいたのです。さらには17章に入ると、彼らは再度「飲み水がない」と言ってはモーセにつぶやき、このときは彼を石で打ち殺そうとまでしたのです。これが愚かで信仰的でない1つ目のことです。
 ②健忘症ということ。すなわち、イスラエルの民は、大切ないくつかのことをこのとき忘れていました。たとえば、エジプトにいた頃のあの奴隷としての過酷な労働のことであるとか、あるいは自分たちの方から神に助けを求めたことであるとか、あるいはエジプトや葦の海やマラなどにおいて、神がどんなにかすばらしい奇蹟を行なわれたかについても、彼らは一切忘れてしまっていたのです。
 ③思い出の美化ということ。要するに、彼らのつぶやきは昔を懐かしんでのそれでした。しかも、思い出とは何と美化されやすいものでしょうか。たとえば、食料に関して、エジプトではいかにも肉なべのそばにすわって、満ち足りるまでパンを食べることができていたかのような、そのような口ぶりなのです。

 いずれにせよ、彼らはそのつど神の奇蹟や神の恵みを体験したにもかかわらず、それが神さまへの信仰としてより深められていくところにまでつながっていませんでした。すぐにつぶやいてしまったり、神の恵みを忘れてしまったり、あるいは「昔は良かった」式の信仰生活になってしまっていたのは、実に、そのためなのです。なお、このことは私たちにとっても同様です。はたして、聖書を読み、祈り、また礼拝をささげるということが、あるいは信仰生活そのものが、本当に、神さまへの信仰を深めることにつながっているでしょうか。もしかすると、信仰が単なるアクセサリーみたいなものになってしまってはいないでしょうか。
  最後になりますが、私が教会に行き始めたころのことを思い起こしてみると、教会の中には信仰に輝いた人がいたのを思い出します。内側が聖霊に満たされ、喜びと平安に満ちた輝く人々。そのような方がおられました。実際に洗礼を受けて教会の交わりの中に入ってみると、主にある一人一人が、皆、主イエスにある個性的な光を放っているのが分かりました。たとえそれがどんなに小さい、弱い光であっても、キリストを指し示す光として、精一杯輝いていました。
 願わくは、今の私たちもかくありたいというか、神さまのもとでいつも憩い、またあふるるばかりのいのちを注いでいただき、こうしてすべてのことを、つぶやかず、疑わず、なつめやしの木としての役割を果たしていくお互いでありたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. エリムから連想できる教会のイメージはどのようなものですか。
2. シンの荒野におけるイスラエルの不信仰を挙げ、私たちへの教訓を考えてみましょう。

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