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出エジプト記19:1-8神の民の特権 [説教]

【聖書箇所】出エジプト記19:1~8
【説 教 題】神の民の特権
【中心聖句】しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロの手紙 第一 2章9節)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】366、372


 今日のところには、神がイスラエルの民と契約を結ぶにあたって、「あなたがたは~となる。」と言って、神が彼らに約束してくださったことが3つあることに気がつきます。
  ①5節:私(神)の宝となる。
  ②6節:祭司の王国となる。
  ③6節:聖なる国民となる。

 はたして、これら1つひとつにどのような意味があるのでしょうか。そこでまずは、イスラエルの民が神の宝となるというその意味についてでありますが…。イザヤ書43:4をみると、神はイスラエルの民をまるで自分の妻であるかのごとくに受けとめ、彼らに向けてこう言われました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と…。つまり、イスラエルの民が神の宝となるということの意味していることは、神ご自身がイスラエルの民を愛の対象、価値ある存在として受けとめたということになります。
 次に、イスラエルの民が祭司の王国となるということについてでありますが…。ご承知のとおり、「祭司」の大切な職務の1つは人々の祝福のために代表して神に祈るということでありましたから、イスラエルの民が祭司の王国となるということの意味していることは、神ご自身がイスラエルの民を祈り手、神にとりなす者として受けとめたということになります。
では、イスラエルの民が聖なる国民となるということについてはどうかというと、神がこの地上にあって人々に望んでおられるのは、人々が神に喜ばれる、聖い生き方をしていくことでありますから、イスラエルの民が聖なる国民となるということの意味していることは、それこそ神ご自身が彼らにその生き方を託したということになります。
 なお、このようにして神は全人類の中から、とりわけイスラエルの民を選ばれたわけですが、それは彼らが民族的にすぐれていたからとか、何か良いことをしたからとか、そのような理由によったのではありませんでした。むしろそれは神ご自身の側の一方的な恵みによることでありまして、こうして神の豊かな恵みにより神とともに生きる者とされたイスラエルの民である彼らを通して、全人類に幸福をもたらすというのが、そもそもの神のご計画だったのです。
 ともかくも、神の宝として神の愛の対象とされ、祭司の王国として神にとりなす代表とされ、聖なる国民として神の聖さに生きていくことを託されたということは、他に類のない特権となったわけですが…。ただし1つだけ条件がありました。それは5節前半にあるとおり、「もし、神の声に聞き従い、神の契約を守るなら」ということ…。つまり、神が仰せになったことを、みな守り行うことができるなら、彼らは神の宝、祭司の王国、聖なる国民となるというのが、イスラエルの民との契約だったわけです。
 はたして、イスラエルの民はこの神の仰せにどう応答したかというと、8節。「すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。』」と、彼らは言うのです。しかし、どうでしょうか。「主が仰せられたことを、みな行ないます。」と断言できる人間が、はたして私たちの住むこの世界にひとりとしているでしょうか。もちろん、言うだけなら誰にでもできます。けれども、大切なのは、それを守り行えるかどうかです。
 残念ながら、イスラエルの民は、その点でよく吟味しませんでした。そして、契約するということの大切さをわきまえなかった彼らは、大胆にも「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と言ってしまったのです。はたして、その後の彼らはというと、皆さんよくご承知のとおり、結局のところ、彼らは神との契約を守ることができませんでした。「~しなさい。」との神の命令があっても、彼らはそれを守り行うことができず、「~してはならない。」との命令があっても、彼らはそれに聞き従うことができなかったのです。ですから、当然のこと、彼らは神の宝、祭司の王国、聖なる国民にはなれないし、神から見離されてもしかたがないと私たちはそう考えるわけですが、何と神はそんな彼らをなおもあわれんでおられるというのです。
 すなわち、これはロマ書から特にわかることでもあるのですが、神は恵みによって異邦人を救い、そして恵みを持ち運ぶ彼らを通して、最終的にはイスラエルの民を救おうとしておられるというのです。しかも、そのためには、今から約2000年ほど前のことになりますが、神の側から大きな犠牲が支払われたのです。それは、神の御子イエス・キリストの十字架という犠牲であり、この大きな犠牲が支払われているがゆえに、今や、イスラエル人であろうが、異邦人であろうが、恵みによって救われるという道が開かれたのです。
 そして、これはⅠペテロ2:9からわかることでもあるのですが、恵みによって救われている私たち異邦人が「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」とされているというのです。何と光栄なことではないでしょうか。私たちは、ただただ神の側の一方的な恵みのゆえに、主イエス・キリスト信じる信仰によって、神の民としての特権に預かっているのです。
 しかも、「行いによるのではなく、恵みのゆえに信仰によって」ということがわかってくると…、こんな私が神に愛され、神の栄光の輝きをあらわす者とされている。こんな私が罪の滅びから救われ祈る者とされている。こんな私だけれども、聖い生き方を神は託してくださったのだから、そうだ、神の恵みに生かされている者として、人々の救いのために祈っていこう、あかししていこうという、内なる変化が起こってくるのではないでしょうか。
 というわけで、この地上にあっては、人々に神の愛を伝え、人々の救いのために祈り、また愛と聖さを追求していく神の民であり続けたいと願わされています。


【恵みの分かち合い】
1.神の民の特権とは、何ですか。
2.あなたは、どうして神の民とされたと思われますか。

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