So-net無料ブログ作成

ヨハネ21:1-22 ペテロの再献身 [説教]

【聖書箇所】ヨハネの福音書21:1~22
【説 教 題】ペテロの再献身
【中心聖句】ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。(Ⅱペテロ1:10)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】429


 取り返しのつかない失敗をしてしまったがために、心に深い傷だけが残って、今だに癒されずにいるという方がときどきいらっしゃいます。実は、きょう学ぼうとしているペテロがそうでした。彼は自分のダメさかげんに失望し、心を暗くしてしまっていたのです。彼がなぜ自分のダメさかげんに失望し、心を暗くしてしまっていたのかというと…。ご承知のとおり、彼はイエスさまの弟子のひとりでした。性格は猪突猛進型といいましょうか、7節と8節をお読みいただくと、イエスさまがいらっしゃるところに向かって行くにあたって、彼は「裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」とか「陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だった」のに湖に飛び込んだとか、そのようなところに彼の性格がよくあらわれていると思うのです。
 さて、私は先程、ペテロは自分のダメさかげんに失望し、心を暗くしていたということを申し上げたわけですが…。はたして、それはどういったことがきっかけとなって、そうなってしまったのでしょうか。実は、それはイエスさま逮捕のときの出来事と深く関係していました。すなわち、イエスさまが逮捕され、大祭司の中庭にまで連行されて行った際、ペテロとヨハネはそっとその後をつけて行きました。他の弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げて行ってしまったのですが、ペテロとヨハネだけは人々に気づかれないようにと遠くから少しずつイエスさまが連行された中庭へと入っていったのです。
 ところが、たまたまそこに居合わせた人たちから「あなたは、あのイエスといっしょにいた人でしょ?」と尋ねられたものですから、自分も逮捕されてしまうことを恐れた彼は「いいえ、私はあの人を知りません」と言って、イエスさまとの関係を否んでしまったのです。しかも、その晩のうちに彼は3度も主を否んでしまったのです。すると、ちょうどそのとき、ペテロの耳に入って来たのは、鶏の鳴く声でした。では、彼の目に入って来たのは何だったでしょうか。それは遠くからではありましたが、振り向いてこちらを見ておられるイエスさまの姿、悲しそうな顔をしておられるイエスさまの姿が彼の目に入って来たのです。そして、イエスさまから言われていた「ペテロよ。あなたはきょう、鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言う」とのことばを思い出しては、イエスさまへの裏切り行為に彼自身ハッとしたでしょうし、イエスさまが十字架にかけられ、死んで墓に葬られた後も、自らの裏切り行為が彼の心に深い傷となって残ってしまっていたのです。
 ところで、3節をご覧ください。ある晩のこと、ペテロは久しぶりに漁に出ました。ところが「その夜は何もとれなかった」と聖書にあるように、まるでそれは心の傷ついている彼の姿そのものを映し出しているように思えてなりません。けれども、4節で「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」とあるように、復活の主、死の殻を打ち破ってよみがえりたもうイエスさまの愛のまなざしは、それこそ心に深く傷のあるペテロに向けられていたのです。とはいえ、ペテロは最初、それが誰なのかわかりませんでした。悩みがあまりにも大きく、また苦しみがあまりにも激しいと、イエスさまとイエスさまの愛がわからなくなってしまう…、そんなことが、ときに、あるのかもしれません。
 しかし、彼にもわかるときが、まもなくやってきました。9節から14節。すなわち、イエスさまから受けた2つの祝福によって、イエスさまとイエスさまの愛がわかるようにされていったのです。その1つは、大漁という祝福です。岸べに立つお方から「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と声をかけられ、それに従うと、確かに、はちきれんばかりの魚が網にかかってきたわけですが…。この大漁のしるしを見せられたがゆえに、岸べに立つお方がイエスさまであるということに気づかされたのです。そればかりではありません。イエスさまは、この後、ご自身を悲しませ、ご自身を裏切ったペテロに対して、食事という祝福を備えてくださいました。言わば、これはイエスさまからの和解の食事でもあったわけですが、ペテロはそれを受け、味わうことによって、イエスさまの赦しの愛をかみしめることになるのです。
 続いて、15節から17節をご覧ください。イエスさまはここで、ペテロに対して2つのことをなさいました。1つは、「ペテロへの確認」です。すなわち、「あなたはわたしを愛しますか」とイエスさまはペテロに確認なさったのです。しかも、不思議と同じことを3度も確認なさいました。なぜでしょうか。イエスさまはかつてペテロに3度も否認されたものですから、それを責めるためにそうしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、ペテロがそのことで心に深い傷を負い、癒されずにいたものですから、イエスさまはそんな彼の心の回復のために、言わばイエスさまのおことばによる癒しのわざがここで行なわれたのです。
 なお、「あなたはわたしを愛しますか」と問われて、今までのペテロだったら、恐らく、肉の力で、またいいところを見せようとして「わたしはあなたを最高の愛(アガペーの愛)で愛します。」と応えたに違いありません。しかし、今や彼は自分の弱さが身にしみてわかっていましたし、自分の力で愛し通すことなどできないことを、前の失敗で思い知らされていましたから、ごくごく控えめに、しかし心を込めてイエスさまを愛しますと応答しました。すると、イエスさまはもう1つのことをなさいました。それは「ペテロへの使命」ということになるわけですが、イエスさまはペテロを教会の指導者として、それはまるで羊を飼う羊飼いのごとくに、彼らを養い、育て、配慮し、また保護する務めを彼に託されたのです。要するに、イエスさまがご自身の器として用いようとしておられるのは、金の器でもなければ、銀の器でもなく、きよめられた器…、すなわち自分の弱さを知ってへりくだっている者をこそ、主はご自身の器として尊く用いようとしておられたのです。
 以上のようなことから、あなたがどんなにか心に深い傷を負っていらっしゃったとしても、主の愛が再びあなたを立ち上がらせてくださるということ。また、主は自分の弱さを知ってへりくだっている者をこそ、主の器として尊く用いてくださるということ…。今回はこれら2つのことを心に留めておくことにいたしましょう。


【恵みの分かち合い】
1.ペテロのような挫折の経験、また回復の経験がありますか。
2.主に用いられるのは、どのような器だと思いますか。

nice!(0) 

nice! 0