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サムエル記 第一1:1~20 ハンナの祈り  [説教]

【聖書箇所】サムエル記 第一 1:1~20
【説 教 題】ハンナの祈り
【中心聖句】私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、
すでにかなえられたと知るのです。(Ⅰヨハネ5:15)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】196


 きょうは、旧約聖書の中に登場してくるハンナという女性の祈りを通して、「神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜くということの大切さ」についてごいっしょに学んでみましょう。
 さっそくですが、昔、イスラエルにまだ王がいなかった時代のことです。エルカナという人にふたりの妻がありました。第一夫人の名は今回の主人公であるハンナ、第二夫人の名はペニンナと言うのですが…。実は、この時代、イスラエルのみならず近隣諸国において一夫多妻が認められていました。といっても、聖書がそれを支持しているということではありません。誤解していただきたくないのですが、聖書に一夫多妻の記事があるからといって、聖書がそれを支持しているということでは決してないのです。むしろ、「ふたりは一体となる」との大切な夫婦の教えが創世記にあるように、ひとりの夫に対してひとりの妻という関係にあることが、神によって創造された人間の本来のあるべき姿であり、それを堅持してこそ神の豊かな祝福へとつながるのです。
 ところが、人間とは何と罪深く、罪の影響力は何と恐ろしいことでしょう。人の心の中にある罪は、神によって創造された人間のあるべき姿をゆがめていき、神と人との関係、また人と人との関係を破壊していくのです。たとえば、ゆがめられた夫婦の関係を例にとると、創世記4:19では「レメクはふたりの妻をめとった。」とあります。第一歴代誌3章では、ダビデ王でさえ複数の妻をめとったとの記録が残っています。また、ソロモン王に至っては、何と「700人の王妃としての妻と300人のそばめがあった。」との記録が第一列王記11:3に残っているのです。いずれにせよ、エルカナの時代も同じであり、彼はハンナとペニンナというふたりの妻をめとっているのです。
 では、エルカナはどういった理由からハンナとペニンナというふたりの妻をめとることになったのかというと、聖書にその理由がはっきり書かれているわけではありません。ですから断定はできませんが、恐らく、最初の妻ハンナとの間に子どもがなかったということが大きな要因になったのではないでしょうか。すなわち、当時、子どもは神の祝福と考えられていました。ですから反対に、子どもがいない、子どもが与えられていないとなれば、それは神の祝福を失っているということであり、また社会的には恥ずべきことと考えられてしまっていたのです。そのため、これは精神的な面からの推測になりますが、エルカナはたぶんそういった周囲の人々からの目に絶えられなかったのではないでしょうか。さらには、自分の後継ぎということを考えると、ハンナには申し訳ないと思いつつも、どうしても第二夫人を必要とする決断をしなければならなかったのではないかと思うのです。
 ともかくも、エルカナはこうしてもうひとりの妻ペニンナをめとるのです。けれども、ひとりの夫に対してひとりの妻という聖書の原則から外れてしまうと、やがてそこにやっかいな問題が起こってきました。どんな問題でしょうか。実は、ペニンナとの間に子どもたちができると、第二夫人である彼女は第一夫人であるハンナを見下すようになり、一方、子どものいないハンナはというと、そのことで大変つらい思いをするようになっていったのです。特に7節で「泣いて、食事をしようともしなかった。」とあるように、彼女はそれほどまでに苦しむようになっていくのです。そして、そんな彼女でしたから、「私は神から見離されてしまったのではないか」とか、「後継ぎが得られなくて夫に申し訳ない」とか、「ペニンナの高慢な態度に私はもうこれ以上たえられない」とか、そんな思いにかられていたかもしれません。
 いずれにせよ、第二夫人であるペニンナはますます高慢になっていき、するとどんどんと神から離れていくようになりました。一方、泣き通しのハンナはどうであったかというと、彼女が行き着いたところは神への祈りでした。といっても、彼女の祈りは、最初、自分の悩みを洗いざらい出しきってすっきりさせたいという思いが大変に強いものでした。すなわち、すっきりできれば自分はもうそれで充分というか、彼女は祈りをそのようにとらえていたのです。しかし、祈り求めていくうちに、ある時点から信仰の気づきが与えられたというか、肉的でしかない自分の求めが吟味され、彼女の祈りが変えられていったように思うのです。具体的には、「私の思い、私の願い」ではなく「神の思い、神の願い」はどうなのかを探られたでしょうし、あるいは「子どもがいれば幸せ」という考えが主流になっている中で、「たとえ子どもがいなくても幸せ」という道もあるということを探られていったに違いないのです。
 そして、16節に至っては「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」と描かれていることに注目していただきたいのです。実は、これこそが「神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜いた者の姿である」といって良いのではないでしょうか。しかも、こうして心を注ぎ出して祈り抜いたハンナには魂の平安が与えられました。そして、その平安は神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得た者にのみ与えられる神からの平安なのです。
 というわけで、「とりあえず祈ってみるか」程度の祈りやお願い一辺倒の祈りになりやすい私たちではありますが…。願わくは、今回のハンナの祈りを通しまして、神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜く経験、もしくは失望しないで祈り続ける経験、あるいはお願いだけの祈りでなく、賛美・感謝・悔い改め・とりなしなどもささげることのできる豊かな祈りへと導かれていくお互いでありたいと思うのです。


【感謝の分かち合い】
1.ハンナは何に悩み、苦しみましたか。
2.ハンナの祈りから、どんなことを学び取ることができますか。

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