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サムエル記 第一17:1-54 ゴリヤテを倒したダビデ [説教]

【聖書箇所】サムエル記 第一 17:1~54
【説 教 題】ゴリヤテを倒したダビデ
【中心聖句】見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。(イザヤ12:2)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】315


 きょうは、ダビデとゴリヤテの戦いを通して、勝利あるクリスチャン生活の秘訣が何であるのかを考えてみましょう。
 さっそくですが、ダビデが父エッサイのいいつけで、兄たちの安否をたずねるために戦場へと出かけて行ったときのことです。ダビデはその戦場である光景を目にしました。どんな光景でしょうか。神さまの御名を侮辱するぺリシテの巨人ゴリヤテの姿を、彼は目にしたのです。しかも、自信満々のゴリヤテはイスラエル軍に対して、代表戦士による一騎打ちをいどんできたのです。一方、イスラエルの兵士たちはというと、ただ恐れおののくだけで、誰ひとりとして彼の挑戦に応じる者がいなかったというのです。
 確かに、ゴリヤテは身長が約3メートルもある巨人でした。しかも、彼は腕の立つベテランの戦士でもありましたから、彼を恐れて意気消沈してしまったとしても無理のない話です(11節)。けれども、残念でならないのは、イスラエルの兵士たちはそこに信仰を働かせることができなかったということです。すなわち、彼らはゴリヤテが巨人であり、かつ有能な戦士でもあったという、いわば戦いの常識からのみ判断して、「これでは無理だ。勝てるはずがない。」と、このように決め込んでしまっていたのです。
 もちろん、常識を踏まえることは、私たちが社会生活を送っていく上で非常に大切なことです。常識がないために、人に迷惑をかけてしまうことがあってはならないわけです。けれども、クリスチャンにはそういった常識の枠を超えて信仰を働かせなければならないことにぶつかるときがあると思うのです。たとえば、私たちの周囲にもゴリヤテのような、とても手ごわい問題、私たちを恐怖に陥れる問題、あるいは私たちを失望落胆させる問題などが起こって来ないとも限りません。そんなとき、「自分の無力さやあきらめ」ということだけに心がとらわれていたら、どういうことになるでしょうか。
 「ふもとで考え込むな、山に登ってみよ。」との格言がありますが、確かに、ある程度の経験を積んできて、いろいろなことがわかってくると、かえって人間は臆病になり、やる前からあきらめてしまう傾向が私たちにはあるかもしれません。また、ある人が「大学を出た若いインテリの悪いクセは、まず実行するよりも、できるかできないかを自分の頭の中で考えてしまうことである。」と言っていましたが、これもまた考えさせられることばではないかと思うのです。
 いずれにせよ、クリスチャンは「自分の無力さやあきらめ」ということだけに心がとらわれてしまうのではなく、「我の無能、されど神の全能」という信仰に立つとき、勝利ある人生の第一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。
 なお、ダビデにはそういった「いざというときに、その第一歩を踏み出すことのできるダイナミックな信仰」がありましたが、はたして彼はそれをどのようにして自分のものとすることができたのでしょうか。
 思うに、彼はいつも神さまのことを思い、祈り、賛美していました。つまり、苦しいときの神だのみということでなく、彼はいつでも、どこでも、どんなときにも、神さまに信頼していました。だからこそ、ピンチのときにもあわてふためくことなく、力ある神への信仰を働かせることができたに違いないのです。また、彼のそういった信仰生活の積み重ねが、やがては足腰の強い信仰者とされていくゆえんではなかったかとも思うのです。
 ところで、皆さんは長嶋茂雄という野球界のかつての偉大なプレーヤーをご存じのことと思うのですが、彼がその頂点にまで達することができたのは、彼の動物的な勘、つまり生まれつきの才能であると言われてきました。けれども、ある雑誌の中で、彼はこんな裏話を語っていたのです。すなわち、「長嶋は天才肌だ。動物的カンの男だ、よくそんなふうに言われたり書かれたりした。その間、ぼくは何も言い訳がましいことを言ったことはない。しかし、ぼくは天才肌でも何でもない。いつも夜中の1時、2時までバットを振っていた。だけど、そういう隠れた部分をファンの皆さんに見せるべきじゃない。それがプロの姿勢だという考え方だった。」(文芸春秋、56.1)と…。
 私はなぜこの話をしたのかというと、ダビデはいつでも、どこでも、どんなときにも神さまに信頼していたわけなのですが、恐らく、人には知られない隠れたところでも、彼は神さまとの交わりを楽しみ、また祈っていたに違いないのです。ですから、戦闘技術の上でも、あるいは肉体的諸条件の上でも、あるいは武器の上でも、はるかに優れていたゴリヤテに対して、彼はわずか1個の石で勝利をおさめることができたのです。
 しかも、その石はごつごつした石ではありませんでした。「なめらかな石」と40節にあります。すなわち、ごつごつしたところのとれた、なめらかな石こそが主の戦いのときの武器になったということになるでしょうか。ふと、そんなことを思い巡らしていたとき、そうだ、主に用いられる器、主が本当に用いたいと願っておられる器は、金の器でもなければ、銀の器でもない…、かどのとれたきよめられた器をこそ主はお用いになられるというふうに思わされたのです。
 というわけで、私たちの人生、これから先、どんな壁や困難に直面するかわかりません。わかりませんけれども、ダビデは、日々、全能の主との親しい交わりをもっていたので、その都度、壁や困難を乗り越えることができました。私たちは、今回、このダビデを見習いたいと思うのです。そして、このダビデを見習うとき、あのゴリヤテのような大きな問題をも乗り越えていく、それこそ足腰の強い信仰が与えられていくに違いないのです。ですから、今回は次のことを覚えておくことにいたしましょう。全能の主との親しい交わりの日々が、あなたを勝利ある人生へと導き、また神に用いられるきよめられた器にしていく。

【恵みの分かち合い】
1.あなたを不安にさせるゴリヤテのようなものが、あなたにはありますか。
2.恐れに打ち勝たせてくれる慣れ親しんだ武具とは、あなたにとって何ですか。

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