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列王記第一3:5~14 知恵を求めたソロモン   [説教]

【聖書箇所】列王記 第一 3:5~14
【説 教 題】知恵を求めたソロモン
【中心聖句】あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】196


 きょう皆さんと共に考えたいテーマは、「祈り」です。ご承知のとおり、聖書の中には神さまに祈った人の話がたくさん出てきます。たとえば、旧約聖書の中にアブラハムという人がいましたが、彼のとりなしの祈りはとても有名です。すなわち、甥のロトが住んでいる町ソドムが滅ぼされてしまうことを知ったアブラハムが、心を痛め、助けてくださるようにと何度も何度も神さまに祈ったのです。なお、神さまに食い下がるようにして「主よ。どうかお怒りにならないで、今1度、今1度だけ私に言わせてください」と祈った、このときの彼の祈りは、すぐに祈ることをやめてしまいやすい、すぐにあきらめてしまいやすい私たちにとって、失望しないで祈り続けることの大切さを教えているのではないでしょうか。
 同じく、旧約聖書の中にモーセという人がいましたが、彼はアマレク人との戦いの際、手を上げて祈りました。ご承知のとおり、モーセが手を上げて祈っている間はイスラエル軍が優勢になり、反対に彼が疲れて手を下げてしまうとアマレク軍が優勢になったという、あの祈りです。なお、アロンとフルのふたりがモーセの手を両側から支えてくれたので、ついに勝利できたわけですが…。ここからは、1つの目的のために互いに祈り合い、また支え合っていくということの大切さがわかるのではないでしょうか。
 また、新約聖書の中には有名な十字架上のイエスさまの祈りや殉教する際のステパノの祈りがあります。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と祈られた、あの祈りです。しかも、その祈りが迫害する者のためのとりなしの祈りであったことを覚えるとき、迫害する者をさえ神にあって愛し、また赦していこうとする心がなければ、とうてい祈ることができない崇高な祈りであったことを、私たちは心に銘記しておきたいと思うのです。
 ところで、きょうのところにはダビデの息子ソロモンが次のイスラエル王位継承者となった、そのときの祈りが取り上げられています。すなわち、ある日のこと、神さまが夢の中でソロモンに現われ、こう言われたのです。「ソロモンよ。あなたに何を与えようか。願え。」と…。はたして、このようなすばらしい神さまからの問いかけに対して、ソロモンは真っ先に何を考えたでしょうか。自分のことだったでしょうか。いいえ。彼はすぐに神の民イスラエルのことを考えたのです。というのも、彼はこう言っているからです。「神さま。あなたは私を王とされました。しかし、私は年が若くて、何もわかりません。ですから、どうぞ、この国民を正しく治めていくことができるように、私に知恵を与えてください。」と…。要するに、ソロモンは「長生きできますように」とか、「お金がもうかりますように」とか、そういった自分の欲求を並べ立てて自分勝手なことを神さまに願ったのではなく、神さまがゆだねてくださった「この国、この民」のために必要と思われるものを…、しかもそれを悪い動機からではなく良い動機・純粋な動機から彼はそれを祈り求めたのです。
 なお、10節から14節には、ソロモンの祈りに対する神さまからの応答が記されてあります。それによると、神さまは彼の願いどおりに知恵を与えてくださいました。さらに、どうでしょう。彼が求めなかった富であるとか、名誉であるとか、長寿であるとか…、そういったものまでもが与えられたのです。つまり、ソロモンの場合、祈りはすぐに聞かれました。神さまは彼の祈りを直ちに聞き、かなえてくださったのです。さらには、求めなかったところの他の祝福までもが、それに添えて与えられたのです。
 しかし、だからといって私たちはここから、私たちの祈った祈りがすべて「即時即応」になるということを期待してはなりません。というのも、いろいろなケースがあることを聖書は教えているからです。すなわち、「すぐにOK」のときもあれば、「すこし待て」のときもあり、「忍耐深く待て」のときもある…。いや、神さまからの祈りの応えが「NO」というときが実際にあるのです。
 たとえば、パウロを例にとると、彼の祈りはそのとおりによく聞かれました。彼が祈ると、そのとおりになったのです。しかし、彼には肉体的に1つの悩みがあり、そのことでも彼は真剣に祈りました。祈り続けたのです。ところが、これに対しての神さまからの応えは「よし、なおしてやろう」ではなく、「わたしの恵みは、あなたに十分である」ということだけだったのです。けれども、パウロにとってそれがどんなに大きな慰め、どんなに大きな励ましになったかわかりません。というのも、彼はかつて、それはやっかいな病気、ご奉仕をする上でのマイナスと考えていました。ところが、主はその弱さを通して、ご自身の力を発揮してくださるということ。あるいは、弱さこそが、主の力のすばらしさが現われる舞台になるということ。さらには、いやしだけが主の栄光ではなく、この地上にあっては病気の者を病気のままで、主は豊かに用いてくださるということ…。彼自身、こういったことがよくわかったからです。
 さて、以上のようなわけで、きょうは神さまからの祈りの応えは、まるでジュースの自動販売機のように、ボタンを押せば自分の望みのものがでてくるという類のものではないということをみてきました。私たちは、つい、神さまをそのような、自分にとって都合のいい自動販売機のようなものにしてしまいがちですが…。私たちは、もう1度、祈るということがどういうことなのか、日々の信仰生活、祈りの生活の中で教えられながら、少しづつ成長していく者でありたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. 神さまからの祈りの応えにどのようなものがありますか。
2. あなたの祈りの体験、祈りの恵みにどのようなものがありましたか。

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