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出エジプト記13:17~14:31(14:26-31) 神の民の救い [説教]

【聖書箇所】出エジプト記13:17~14:31(14:26-31)
【説 教 題】神の民の救い
【中心聖句】恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。(出エジプト記14:13-14)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】325


 前回は、エジプトの王パロのかたくなさに対して、神が10の災いを下してこれを打ち砕き、イスラエルの民を奴隷状態から解放した場面を取り上げました。今回はその続きになりますが、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、いよいよ約束の地カナンに向かって旅立っていくときの記録を見ていくことになります。
 調べによると、エジプトから約束の地カナンに入るには2つのルートがありました。1つは地中海に沿った海沿いの道で、ここを通ると約2週間で約束の地に到着することができました。そしてもう1つはというと葦の海に沿った荒野の道になります。こちらはどちらかと言うと長い道のりで、途中シナイ山を通るルートにもなっています。
 はたして、神はそのどちらに彼らを導いたでしょうか。約束の地カナンへの最短距離、すなわち地中海に沿った海沿いの道だったでしょうか。いいえ、神は葦の海に沿った荒野の道に彼らを導かれたのです。それにしても、神はこのときどうして彼らに近道をさせず、かえって遠回りをさせたのでしょうか。実は、地中海に沿った海沿いの道には、当時、好戦的な人々として知られているペリシテ人がいました。つまりどういうことが言えるでしょうか。非武装集団であるイスラエル人にとって、そちらはあまりにも危険が大きすぎるということから、神はあえて近道をさせなかったのです。同様に、私たちの人生にも遠回りのように思えてならない、そのようなときがあるかもしれません。しかし、そこに信仰を働かせて受け止めていこうとするなら、遠回りの人生にも意味があるとか、もしかすると弱い私をかばう神のご配慮があってのことなのかもしれないとか…、そのようなことが私たちにもわかってくるのではないでしょうか。
 また、これは13:21~22からわかることでもあるのですが、神は神の民イスラエルのために、昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」を備えていてくださいました。つまり、昼は昼で雲の柱が日中の暑さから彼らを守り、また夜は夜で火の柱が野の獣から彼らを守って、常にその旅路を守り導いてくださったのです。なお、神は私たちのためにも常に共にいてくださり、地図やコンパスにもまさる人生の道案内をしてくださろうとしておられます。そうです。神は罪の世界から私たちを導き出してくださっただけでなく、天の御国に至るまでの荒野の人生を共に歩んでくださるお方でもあられるのです。
 ところで、そのころエジプトの王パロはというと、急に心変わりをしたようで、エジプトを脱出したイスラエル人の追跡を開始するのです。というのも、無代価で労働を提供してくれていた奴隷がいなくなってしまったわけですから、当然のこと、その分の労働がエジプト人の肩に重くのしかかってきます。そうなると、エジプトにとってはたいへんな経済的打撃につながってくるわけです。そこでイスラエル人を連れ戻し、再び奴隷として働かせるために、パロはありったけの戦車を用意し、また最強の部隊を引き連れてイスラエル人の追跡を開始したのです。
 一方、その頃、イスラエル人はというと、彼らは海辺に導かれていました。旅に疲れたからだを休ませていたのです。ところが、しばらくすると馬の鳴き声や戦車の音が聞こえてきたものですから、ふと振り返ってみると、何と、パロの率いるエジプトの軍勢がすぐ近くにまで迫って来ているではありませんか。おまけに、目の前は海ですから、逃げるところもなければ時間もありません。そのため彼らはパニックを起こすのです。そして指導者モーセに泣きながらの文句を言い始めるのです。
 考えてみれば、私たちにもこのような「絶体絶命」というか、「八方ふさがり」というか、「逃げ場がない」というか…、そのようなことに遭遇するときがあるのではないでしょうか。はたして、そのようなとき私たちはどのようにすればよいのでしょうか。思うに、このときイスラエル人には、次の2つの特徴がありました。14:11と12のところになりますが…。1つは、「私たちには死よりほかにもう道はない」という決めつけがあったということ。もう1つは、彼らはその不平不満の叫びを身近な指導者モーセにぶつけたということです。
 では、このときモーセはどうだったかというと、14:13~14をご覧ください。モーセの場合、彼はどんなにか絶体絶命のように感じるときがあったとしても、だからといって「死よりほかに道がない」とは決めつけないで、そんなときにこそ上を見上げました。また、私たちのまわりがどんなにか八方ふさがりのように思えるときがあったとしても、それでも天は大きく開かれていることを彼は知っていましたから、そこに向かって叫ぶなら、神が必ずや助けてくださるということを人々に語って聞かせたのです。そしてそのとおりに、モーセが天を仰いで祈っていると、不思議なことが起こりました。これまでは前を進んで彼らを守り導いてくれていた雲の柱が、このときにはすみやかに後方へと移動し、イスラエルの陣営とエジプトの陣営との間に入って、彼らのために立ちふさがってくれたのです。また、モーセが海の上に手を差し伸ばすと、そこに激しい東風が起こり、これによって目の前の海が真っ二つに分かれると、それが右と左の壁となって、そこにかわいた道ができあがったというのです。つまり、道は開かれたということです。ご承知のとおり、こうして神の民イスラエルは救われ、エジプト軍は敗北していくのです。
 そこで、私たちは今回「恐れない」ということばをキーワードにしたいと思うのです。すなわち、モーセは14:13のところで、民に向かって「恐れてはいけない」と叫びました。しかもこの「恐れるな」ということばは、実に、聖書のあちこちに出てくることばでもあるのです。たとえば、神はアブラハムに対して、創世記15:1のところで、「恐れるな」と言われました。救い主誕生の際、御使いは荒野にいた羊飼いたちに対して、ルカ2:10のところで、「恐れることはありません」と語りました。イエスさまの弟子たちが湖の上で嵐に悩まされていたとき、イエスさまは彼らに対して、マタイ14:27のところで、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。こういうことですから、私たちが困難に直面したとき、主は私たちに対しても「恐れるな」と語っておられると思うのです。そこで、今回の中心聖句に心をとめましょう(読む)。
 偉大な指導者モーセは、ピンチのとき、恐れず、あわてず、「もうダメだ」と決めつけず、むしろ開かれている天を見上げ、神に祈りました。そうです。彼は、祈って、神のなさることを静かに待ち望んだのです。願わくは、彼のこのような神への全幅の信頼を私たちも見習うのもでありたいと思うのです。なぜなら、私たちにはどんな状況からでも救い出すことのできる全能の神が共にいてくださるからです。


【恵みの分かち合い】
1. あなたには、今まで「八方ふさがり」のような経験がありましたか。
2. あなたには、神によって「道が開かれた」という経験がありますか。

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出エジプト記7:1~7、12:29~42 神の民の聖別 [説教]

【聖書箇所】出エジプト記7:1~7、12:29~42
【説 教 題】神の民の聖別
【中心聖句】知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4:3)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】 1


 復習になりますが、出エジプト記2章において私たちは「神の民の指導者」として神から特別な召しを受けたモーセについて学びました。すなわち、80歳のとき、彼は神から特別な召命を受けたのです。どんな召命でしょうか。「エジプトで苦しむイスラエルの民を救うために、お前が立ちあがれ」との召命を受けたのです。では、彼はそれに応えてすぐに立ち上がることができたのかというと、彼は尻込みをしてしまったのです。というのも、指導者として自分が力不足であることを彼自身よくわかっていたからです。とはいえ、神が望まれたのは、自分の力不足のゆえに一歩後退してしまうということではありませんでした。むしろ、「我の無能、されど神の全能」といいますか、「神は全能であられるがゆえに、必要な助けは神から来る」との信仰に立って一歩前進してほしかったのです。そのため、神はモーセを何とかしてなだめ励ましていくと、ようやくのこと、彼はエジプトで苦しんでいる同胞の民を助け出すために自ら立ち上がることができたのです。
 なお、7章から12章のところでは、こうして神に励まされたモーセがいよいよ兄アロンと共にエジプトの王パロと対決する場面になっていきます。はたしてその内容はというと…。まず、モーセとアロンがエジプトの王パロのもとへと出向いて行くと、彼らは王に向かってこう訴えるのです。「わが民を去らせよ。そして荒野で祭りをさせよ。さもなくば、イスラエルの神があなたの上に災いをくだすであろう」と…。しかし、エジプトの王パロはそのようなことで動揺するきゃしゃな王ではありませんでした。鼻先でフフンと笑うと、「イスラエルの神に、そんな力があるだろうか」と言い放つのです。そこでモーセはアロンに命じて、彼が手にしている杖を投げさせると、その杖は蛇の姿となり、身をくねらせながら王の足元にまで這い寄って行ったのですが、王はそれでも動揺しませんでした。かえって、家臣に命じてエジプト人の呪法師を連れて来させ、同じことが我々にもできることをして見せては、モーセたちをあざ笑ったのです。ところがです。モーセの蛇が呪法師の蛇をのみ込んでしまったときには、一瞬、王の顔色が変わりました。けれども、だからといって降参するような王ではなかったのです。
 さて、あくる朝のことです。モーセがナイル川の岸にやって来ると、エジプトの王パロとその家臣たちに出会ったものですから、モーセは王に向かって言いました。「王よ。あなたはなぜ私の願いを聞こうとしないのか。あなたの前で蛇に変わったあの杖は、神の杖である。これでナイル川の水を打つと、川の水は血に変わって臭くなり、飲むことができなくなる。それでもよいのか」と…。しかし、王は聞く耳をもっていませんでした。そこで、モーセとアロンが王とその家臣たちの目の前でナイル川を杖でたたくと、ナイル川は見る間に真っ赤な血に変わっていったではありませんか。ところが、王はそれでも彼らの言うことを聞こうとせず、かえってその心をかたくなにしていったのです。
 なお、一週間が過ぎ、再び王のもとへと出向いて行くと、モーセは言いました。「王よ。あなたはまだイスラエルの神の偉大さを悟らないのか。あなたがわが民を去らせず、祭りをさせないなら、今度はエジプト全土をカエルが襲うであろう。カエルは大群となり、あなたの王宮にまでも入り込むであろう」と…。すると、王は強がって言いました。「できるものなら、やってみるがよい」と…。ところが、さすがの王もカエルの大群を見たときには大変に驚きました。窓という窓、戸という戸を堅く閉じたにもかかわらず、カエルは王宮の中に入り込み、寝室ベッドにまで入り込んできたからです。たまりかねた王は、カエルを取り除いてほしい一心からモーセに懇願します。「カエルを何とかしてくれ。そうすれば、イスラエルの民を行かせる。祭りもさせる」と…。しかし、カエルがいなくなってしまうと、王は手のひらを返したように、モーセとの約束を撤回してしまうです。
 そのため、神は次々とエジプトに災いをくだしていきました。ブヨを起こし、アブを起こしてはエジプト全土を襲わせました。家畜を疫病にかからせ、人にも獣にもうみの出る腫物を起こしては彼らを悩ませました。雷や雹、さらにはイナゴの大群が彼らの作物に大打撃を与えました。さらには3日間にも及ぶ暗闇の到来が彼らを苦しめたりもしたのです。なお、このようにして次々と襲ってくる災いに対して、王はそのたびごとに悲鳴をあげ、「国内なら」(8:25)、「近くなら」(8:28)、「男だけなら」(10:11)、「羊と牛を残しておくなら」(10:24)と言っては譲歩したりもしてくるのですが、災いが過ぎ去ってしまうと、手のひらを返したように、彼は平気で約束を破っていったのです。
 そのため、とうとう決定的な災いがエジプトにくだることになりました。エジプト中の初子という初子を、人であろうが家畜であろうが、ことごとく打つという神のさばきがくだることになったのです。けれども、この恐ろしいさばきに先立ち、神は「逃れの道」を備えておられたのであるということが、きょうの学びの大事な部分になります。すなわち、逃れの道とは「傷のない子羊をとり、これをほふって肉を食べ、その血は家の入口にある2本の門柱とかもいに塗る」というものであり、神はその血を見て、その家を過ぎ越してくださるというのです。それにしても、神のさばきが現実のものとなってしまうときがいよいよやって来ました。その夜、エジプト中の初子という初子のすべてが打たれてしまったのです。そのため、家という家から激しい泣き叫びの声があがってきました。ところが、血のしるしのあるイスラエルの家だけは、確かに、これを免れることができたのです。というのも、血のしるしのあるところを神が過ぎ越してくださったからです。ご承知のとおり、これがいわゆる「過ぎ越しの祭り」の発端であり、ユダヤ人はこのときの解放を記念して、今もなおこの祭りを行なっているわけです。
 なお、「過ぎ越し」ということを考えるとき、この解放の出来事は、今日の私たちにとってはイエス・キリストの十字架へとつながっていきます。なぜかといえば、イエス・キリストご自身が全人類にとっての真の過ぎ越しの子羊となられたからです。事実、バプテスマのヨハネはその先駆者として、イエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の子羊」として人々に紹介しました(ヨハネ1:29)。一方、イエスご自身はというと、まさにそのとおりに、全人類にとっての真の過ぎ越しの子羊として、十字架の上でありったけの血を流してくださったのです。そうです。罪のないお方が私たちの罪を代わりに背負って十字架の上で血を流してくださいました。私たちはその尊い犠牲のゆえに決定的なさばきに会うことがなく、今や「罪からの解放」というすばらしい救いをいただくことができる者とされているのです。そして、現在の私たちはというと、私たちのために裂かれた主のからだ、そして流された主の血潮…、それを聖餐式というかたちで、その救いの恵みを味わっているのです。そのような意味で、私たちは今後とも、礼拝式における主のことばと主の聖餐というものを大事にしていく群れでありたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. エジプトにくだった10の災いについて、調べてみましょう。
2. 「過ぎ越し」がキリストの型であることを、エペソ1:7、ヘブル9:12~14、ヘブル9:22などから確認しましょう。

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