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ルカの福音書2:22-40 高齢者祝福式 [説教]

【聖書箇所】ルカの福音書2:22~40
【説 教 題】シメオンとアンナ
【中心聖句】わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】171


 世の中にはつぶやきや不満、愚痴や悪口、そういった言わば周囲の人々を不快にさせるマイナス面ばかりが、つい口から出てきてしまうという人がいるものです。こんな話があります。昔、あるところにお母さんとふたりの娘がいました。とても仲良く暮らしていたのですが、やがてふたりの娘たちも結婚して、ひとりは傘を売る傘屋さんへ、もうひとりは帽子を売る帽子やさんへお嫁に行くことになったのです。ところが、その日以来、お母さんは空を眺めては、ついため息ばかりが口から出てきてしまうようになってしまったというのです。
 そこで、ある人が尋ねて言いました。「お母さん。あなたはどうしてそんなにため息ばかりついているのですか?」と…。すると、お母さんは答えて言いました。「実は、娘たちのことが心配で心配でならないのです。娘たちは、それぞれ傘屋と帽子屋へ嫁に行ったのですが、雨でも降れば帽子屋へ嫁に行った娘のところの商売は大丈夫だろうか、反対に天気にでもなれば傘屋へ嫁に行った娘のところの商売は大丈夫だろうかと、どうしても心配になってしまうのです。」と…。
 そこで、尋ねた人は笑いながら次のようにアドバイスをしたというのです。「お母さん。それは反対に考えたほうがいいですよ。つまり、天気が良ければ帽子屋が繁盛する。それに雨でも降れば傘屋が繁盛する…。そう考えれば、いつも感謝できるでしょ。」と…。
 いかがでしょうか。要するに、私たちにとって大事なのは「今をどう受けとめるか」、つまりマイナスと受けとめるのか、それともプラスと受けとめるのか…。それによって私たちの人生は大きくかわっていくのです。
 ある人が、「今を感謝することのできない人は、どこまで進んでも、決して満足のいく人生を送ることができない。つぶやきと不満の人生を重ねていては、老後もまたつぶやきと不満だけが残る」と言っていましたが、本当にそうだなと思うのです。
 ところで、きょうのところには人生の晩年を迎え、感謝のことばを口にすることができた二人の人物が登場してきます。シメオンという老人とアンナという老婦人です。
 そこでまずは、25節をご覧ください。ここには老人シメオンに対する神さまからの評価が記されてあります。第1に、彼は「正しい」人でした。つまり、「人を愛する」という点で、神さまは彼をそのように評価なさったのです。第2に、彼は「敬虔な」人でした。これは「神さまを愛する」という点で、神さまご自身、彼をそのように評価なさったのです。そして第3に、彼は「イスラエルが慰められること」、すなわち「真の慰めをもたらすところの救い主が来られること」を待ち望んでいた人物でもあったということです。
 要するに、私たちはここに魅力的な信仰生活を送っている高齢者の姿をみることができるのではないでしょうか。では、人を愛し、神を愛し、またメシヤを待望するところの、そのような生き生きとした信仰生活というのは、どうすればそれを自分のものとすることができるのでしょうか。たとえば、それは自分の側の努力や能力によるのでしょうか。いいえ、聖書によると、それは人間の側の何かということではなしに、むしろ25節の後半が1つのヒントになるかと思うのですが、そこにはこうあります。「聖霊が彼の上にとどまっておられた」と…。要するに、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩んでいこうとする者を主は祝福してくださるという真理をここに発見するのです。
 なお、29節から32節までは「シメオンの賛歌」と言われているものです。つまり、晩年を迎えたシメオンが救い主イエスさまとの出会いを非常に喜び、また感謝しているわけですが、生涯を終えるときのことばが、つぶやきや不満ではなく、喜びや感謝であるとは、何と幸いなことではないでしょうか。
 続いて、36節と37節をご覧ください。ここには、もうひとりの人物が取り上げられています。名前は「アンナ」、日本語では「めぐみ」という意味になります。ところが、彼女の人生は決して恵みどころではありませんでした。なぜなら、彼女の最愛の夫…、その夫が早くに亡くなってしまったからです。そのための悲しみ、そのための苦労…、それがどれほどのものであったか、私には想像がつきません。けれども、「すごいな」と思うことが1つあります。それは何かというと、彼女はそれらのことをすべて信仰で受けとめ、また受けとめ続けて、今や84歳にまでなったという人生の重みです。私は、そういう彼女の存在それ自体がもうそれだけで尊いと思うのです。
 なお、38節をご覧いただくなら、晩年を迎えたアンナは、シメオン同様、救い主イエスさまとの出会いを非常に喜び、また感謝しました。しかも彼女の場合、その喜びの気持ちが彼女を外へと向かわせ、人々にあかしするというかたちであらわされていったのです。
 さて、そこでいかがでしょうか、一年を終えるとき、あるいは生涯を終えるとき、もし私たちの口から出てくるものが、つぶやきや不満、あるいは愚痴や悪口であったなら、それは非常に寂しいことです。しかし、シメオンやアンナのように、喜びや感謝が口から出てきたとするなら、それは何と幸いなことではないでしょうか。願わくは、きょうの中心聖句が教えているように、自分の過去を思い巡らしては、折にかなった助けを与えてくださった神さまに感謝し、また神さまの恵みはとこしえに変わることがないということを覚えて今を感謝し、また感謝をみつけることができる…。そのようなよき信仰の姿勢をもっていたいものだと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. あなたにとっての最近の感謝は何ですか。
2. あなたにとってのきょうの教訓、きょうの決心は何ですか。

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マルコの福音書10:32~45 弟子の道 [説教]

【聖書箇所】マルコの福音書10:32~45
【説 教 題】弟子の道
【中心聖句】あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マタイ20:26)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】385or404


 過ぎ越しの祭りが近づき、大勢の人々がエルサレムを目指して旅をしていたときのことです。主イエスさまと弟子たちも、エルサレムへと向かって旅をしていました。ところが、エルサレムにはイエスさまを憎む祭司長やパリサイ人たちがいて、どうやら彼らはイエスさまを捕まえては殺そうと探し回っていたようです。けれども、イエスさまはそのことをご存じの上で、父なる神さまのみこころに従われたのです。なお、このときイエスさまは12弟子とほかの多くの弟子たちの先頭に立って歩いて行かれました。
 ところで、そんなイエスさまの後ろ姿に弟子たちはいつもと違う何かを感じたようです。というのも、「弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた」と、12節にあるからです。思うに、弟子たちはそのとき、イエスさまの後ろ姿が何か勇ましくも見え、また孤独にも見えたのかもしれません。また、弟子たちはかつてイエスさまからご自身の受難に関する予告を聞いていましたから、迫り来る死を彼らなりに察知したのかもしれません。「弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた」という表現には、そんな緊迫した様子が描かれているのだろうと思うのです。
 ともあれ、そんな弟子たちの様子を感じとったイエスさまは12弟子だけをそばに呼んで、歩きながらお話しになりました。33-34節を読みましょう。イエスさまはご自身がエルサレムでユダヤ人の指導者たちに捕まり、十字架にかけられると予告なさいました。けれども3日目によみがえるともおっしゃったのです。ところが、弟子たちにはその意味を十分に理解することがこのときできていませんでした。そのことは、ヤコブとヨハネの兄弟がイエスさまに近づいて、イエスさまに申し上げた彼らの次のことばによってわかります。35-37節を読みましょう。どうやら弟子たちはイエスさまがユダヤ人の王になる日が近づいたのだと思い違いをしていたようです。それで、ヤコブとヨハネは、王の右と左に座る人、つまりイエスさまの次に偉い立場になりたいと願ったのです。
 そんなヤコブとヨハネに、イエスさまはおっしゃいました。「あなたたちは、何もわかっていないのですね。わたしはこれから大きな苦しみを受けるのです。あなたたちもその苦しみを受けることができるのですか」。イエスさまは、ご自分がすべての人の罪を背負って、十字架にかかる苦しみのことをおっしゃったのですが、ヤコブとヨハネはよく考えもせず、張り切って「できます」と答えてしまうのです。そこで、イエスさまは二人を見つめておっしゃいました。「確かにあなたたちは、わたしに従うために苦しみを受けることになるでしょう。でも、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしが決めることではなく、父なる神さまがお決めになることなのです」と・・・。
 なお、このやり取りをあとで知った他の弟子たちは、「やつらめ、ずるいぞ」と腹を立てました。というのも、みながヤコブとヨハネと同じように、自分の地位や名誉を求めていたからです。つまり、この地上での自分の地位や名誉に執着していたのはヤコブとヨハネだけではなかったということです。
 そこで、イエスさまは弟子たちを集めてお話しになりました。42-44節を読みましょう。要するに、イエスさまはここで、この世の在り方とは違う、主イエスさまの弟子としての道、弟子としての在り方をお教えになられたのです。なお、イエスさまがお教えになられた弟子としての道とは、それは「仕える者になる」というものでした。すなわち、この世は地位や名誉に価値を見いだし、トップになることを目標にします。また、トップになって人を支配することが目標にもなっていきます。けれども、信仰者は神と人とに仕えることを目標にすべきであるというのです。なお、このことは「向上心をもつな」ということではありません。向上心は、人として成長するために神さまが与えてくださった大切な資質です。けれども、その向上心が野心・野望へと変わったとき、正当な欲求が罪深い欲望へと魔物化していくことがあるので、私たちはそこに気をつけなければいけないし、また神さまによって守っていただかなければいけない領域ではないかと思うのです。
 というわけで、私たちの向上心が野心・野望へと変わらないように、また正当な欲求が罪深い欲望へと魔物化していかないように、お祈りしながら主の弟子としての道を歩むお互いでありたいと思うのです。また、周りの人たちの気持ちや置かれている状況を気遣い、へりくだって行動したイエスさまに倣っていくお互いでもありたいと思うのです。
 なお、今回の学びの範囲を越えてしまいますが、聖書を読み進めてまいりますと、やがてヤコブとヨハネをはじめ主イエスさまの弟子たちは、それぞれが仕える人生を送っていくことになります。すなわち、主イエスさまの復活後、聖霊によって自分たちの罪と弱さが変えられ、主イエスさまの弟子としての真の道に彼らは変えられていったのです。そして、そのようにして変えられていった彼らによって、まさに主イエスさまの福音が全世界へと伝えられていったのです。


【恵みの分ち合い】
1.「仕える」ということについて、自由に話し合って見ましょう。
2.ヤコブとヨハネのその後の歩みについて調べてみましょう。

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