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サムエル記第一8:1-9,15:10-11 最初の王サウル [説教]

【聖書箇所】サムエル記 第一 8:1~9、15:10~11
【説 教 題】最初の王サウル
【中心聖句】ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
(Ⅰサムエル12:24)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】372


 本日の説教で取り上げますのは、イスラエル統一王国時代の最初の王になりましたサウルについてです。今回はこのサウル王を通して「神の民の霊的リーダーはどうあるべきか」をごいっしょに学んでみましょう。
 さっそくですが、昔、イスラエルには王がいませんでした。神がさばきつかさを通して、イスラエルを治めていたからです。ところが、エジプトでの奴隷生活から解放され、約束の地カナンに定住するようになったイスラエルは、ここにきて非常に重要な歴史的局面を迎えることになるのです。というのも、神がさばきつかさを通してイスラエルを治めていたとはいえ、偉大なさばきつかさサムエルはすでに年を重ねて高齢になっていました。また彼には跡を継ぐべきふたり息子たちがいましたが、さばきつかさとしては霊的にも人格的にも不適格であったがために全く話にならなかったからです。8:1~3を読んでみましょう(読む)。そこで、イスラエルの長老たちはサムエルのところへ行くと、近隣諸国と同じように、戦いを指揮し、また自分たちを治めてくれる王を求めるようになっていったのです。
 ご承知のとおり、このようにしてイスラエルの最初の王になりましたのが、ベニヤミン部族の若者サウルであったわけです。では、王に選ばれた彼はどのような人物であったのかというと、9:1~8をご覧ください。ここをご覧いただくと、いくつかのことがわかってきます。
①1節:彼の家柄については、裕福な家庭であったということ。
②2節:彼の外見については、容姿端麗な青年であったということ。
③3節と4節:父との関係ということでは、親の言うことに聞き従う忠実な息子であったということ。
その他、注目すべき点としては9:7(読む)。要するに、神の人を訪問する際に贈り物があるかないかを心配するほどに、世間的な常識を備えている人物であったということ。

 以上のような事柄から判断すると、サウルが王になるには、その家柄においても、またその外見においても、またその人間性においても、全く申し分のない人物であったことが容易に伺えるわけですが…。はたして、人間的にみて良い点が多々あるからといって、それが神の民イスラエルを治める王にふさわしいかというと、後に、彼は神の民の霊的リーダーとして、次の2つの問題点が浮き彫りにされてくるのです。
 1つめは、13:5~15にある記事になりますが、ペリシテ人との戦いにおける大失態があります。すなわち、サウル王が人々と共にギルガルというところに着いたとき、戦いに備えるべく、神の民イスラエルがまずしなければならなかったのは、神の祭司サムエルによって全焼のいけにえをささげていただくということでした。ところが、サムエルがまだ来ないうちに敵のペリシテ人が攻めて来たのです。しかも、敵の兵隊の数はまるで海辺の砂のようにたくさんで数えきれないほどだったものですから、イスラエルの民はサウル王を捨てて、今にも逃げ出しそうになったのです。そこで、サウル王はどうしたかというと、この状況にたまりかねた彼は自らの手で全焼のいけにえをささげてしまうです。ところが、神の祭司サムエルがやってきたのは、ちょうどそのときだったのです。
 要するに、祭司として召されていないサウル王が自分勝手に全焼のいけにえをささげてしまう越権行為もさることながら、不安と緊張の中で彼は神に頼らず、神のみこころも求めず、こうしてあとわずかな時間を待つことができなかった彼は、自分勝手な判断で行動してしまった…。このことが、神の民の霊的リーダーとしての問題点となったのです。
 さらにもう1つのことが、15:1~28にあります。すなわち、アマレク人との戦いにおいて、彼はまたしても神への不従順の罪を犯してしまうのです。今回は、その詳しいところは省略いたしますが…。いずれにせよ、リーダーとしてのサウル王の問題点をまとめてみると、彼は神のみこころよりも自分の考えを優先させてしまったということ。また、神のみおもいよりも自分の欲望を優先させてしまったということ。それにもう1つ。彼には人間的にみて良い点が確かに多々あったにせよ、彼の高慢さからなのか、それとも彼の霊的鈍感さからなのか、それともその両方なのか、よくわかりませんが…、彼は神のおことばをいい加減にしか聞いていなかったし、また聞こうとしていなかった…。この点が、彼の大きな問題点であったという結論に達するのです。
 以上、サウル王の失敗談から、神の民の霊的リーダーはどうあるべきかについて、次の2つのことを学びました。
① 神のみこころがわかっていながらも、自分の考えを押し通してはならないということ。
② 神のみこころがわかっていながらも、自分の欲望を優先させてしまってはいけないということ。
要するに、神のみこころがわかっているなら、自分の考えを押し通すことをやめ、自分の欲望を優先させることを捨て、それこそ神のみこころに聞き従っていこうとするかどうかが、神の民の霊的リーダーとして問われていたことだったのです。
なお、そのような意味では「神のおことばに耳を傾けること」や「神のおことばに聴き従うこと」は、何もリーダーだけに求められていることではありません。クリスチャンである私たち一人ひとりにとっても大切な信仰生活の基本でありますから、すべての基準を神に置いて生きていくリーダー、そして教会となっていくようにと神に祈りましょう


【恵みの分かち合い】
1. リーダーとしてのサウル王の問題点は、何だったと思いますか。
2. サウル王の失敗から、何を学ぶことができますか。

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サムエル記 第一1:1~20 ハンナの祈り  [説教]

【聖書箇所】サムエル記 第一 1:1~20
【説 教 題】ハンナの祈り
【中心聖句】私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、
すでにかなえられたと知るのです。(Ⅰヨハネ5:15)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】196


 きょうは、旧約聖書の中に登場してくるハンナという女性の祈りを通して、「神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜くということの大切さ」についてごいっしょに学んでみましょう。
 さっそくですが、昔、イスラエルにまだ王がいなかった時代のことです。エルカナという人にふたりの妻がありました。第一夫人の名は今回の主人公であるハンナ、第二夫人の名はペニンナと言うのですが…。実は、この時代、イスラエルのみならず近隣諸国において一夫多妻が認められていました。といっても、聖書がそれを支持しているということではありません。誤解していただきたくないのですが、聖書に一夫多妻の記事があるからといって、聖書がそれを支持しているということでは決してないのです。むしろ、「ふたりは一体となる」との大切な夫婦の教えが創世記にあるように、ひとりの夫に対してひとりの妻という関係にあることが、神によって創造された人間の本来のあるべき姿であり、それを堅持してこそ神の豊かな祝福へとつながるのです。
 ところが、人間とは何と罪深く、罪の影響力は何と恐ろしいことでしょう。人の心の中にある罪は、神によって創造された人間のあるべき姿をゆがめていき、神と人との関係、また人と人との関係を破壊していくのです。たとえば、ゆがめられた夫婦の関係を例にとると、創世記4:19では「レメクはふたりの妻をめとった。」とあります。第一歴代誌3章では、ダビデ王でさえ複数の妻をめとったとの記録が残っています。また、ソロモン王に至っては、何と「700人の王妃としての妻と300人のそばめがあった。」との記録が第一列王記11:3に残っているのです。いずれにせよ、エルカナの時代も同じであり、彼はハンナとペニンナというふたりの妻をめとっているのです。
 では、エルカナはどういった理由からハンナとペニンナというふたりの妻をめとることになったのかというと、聖書にその理由がはっきり書かれているわけではありません。ですから断定はできませんが、恐らく、最初の妻ハンナとの間に子どもがなかったということが大きな要因になったのではないでしょうか。すなわち、当時、子どもは神の祝福と考えられていました。ですから反対に、子どもがいない、子どもが与えられていないとなれば、それは神の祝福を失っているということであり、また社会的には恥ずべきことと考えられてしまっていたのです。そのため、これは精神的な面からの推測になりますが、エルカナはたぶんそういった周囲の人々からの目に絶えられなかったのではないでしょうか。さらには、自分の後継ぎということを考えると、ハンナには申し訳ないと思いつつも、どうしても第二夫人を必要とする決断をしなければならなかったのではないかと思うのです。
 ともかくも、エルカナはこうしてもうひとりの妻ペニンナをめとるのです。けれども、ひとりの夫に対してひとりの妻という聖書の原則から外れてしまうと、やがてそこにやっかいな問題が起こってきました。どんな問題でしょうか。実は、ペニンナとの間に子どもたちができると、第二夫人である彼女は第一夫人であるハンナを見下すようになり、一方、子どものいないハンナはというと、そのことで大変つらい思いをするようになっていったのです。特に7節で「泣いて、食事をしようともしなかった。」とあるように、彼女はそれほどまでに苦しむようになっていくのです。そして、そんな彼女でしたから、「私は神から見離されてしまったのではないか」とか、「後継ぎが得られなくて夫に申し訳ない」とか、「ペニンナの高慢な態度に私はもうこれ以上たえられない」とか、そんな思いにかられていたかもしれません。
 いずれにせよ、第二夫人であるペニンナはますます高慢になっていき、するとどんどんと神から離れていくようになりました。一方、泣き通しのハンナはどうであったかというと、彼女が行き着いたところは神への祈りでした。といっても、彼女の祈りは、最初、自分の悩みを洗いざらい出しきってすっきりさせたいという思いが大変に強いものでした。すなわち、すっきりできれば自分はもうそれで充分というか、彼女は祈りをそのようにとらえていたのです。しかし、祈り求めていくうちに、ある時点から信仰の気づきが与えられたというか、肉的でしかない自分の求めが吟味され、彼女の祈りが変えられていったように思うのです。具体的には、「私の思い、私の願い」ではなく「神の思い、神の願い」はどうなのかを探られたでしょうし、あるいは「子どもがいれば幸せ」という考えが主流になっている中で、「たとえ子どもがいなくても幸せ」という道もあるということを探られていったに違いないのです。
 そして、16節に至っては「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」と描かれていることに注目していただきたいのです。実は、これこそが「神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜いた者の姿である」といって良いのではないでしょうか。しかも、こうして心を注ぎ出して祈り抜いたハンナには魂の平安が与えられました。そして、その平安は神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得た者にのみ与えられる神からの平安なのです。
 というわけで、「とりあえず祈ってみるか」程度の祈りやお願い一辺倒の祈りになりやすい私たちではありますが…。願わくは、今回のハンナの祈りを通しまして、神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜く経験、もしくは失望しないで祈り続ける経験、あるいはお願いだけの祈りでなく、賛美・感謝・悔い改め・とりなしなどもささげることのできる豊かな祈りへと導かれていくお互いでありたいと思うのです。


【感謝の分かち合い】
1.ハンナは何に悩み、苦しみましたか。
2.ハンナの祈りから、どんなことを学び取ることができますか。

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