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ルカの福音書4:1~13 荒野の試み [説教]

【聖書個所】ルカの福音書4:1~13
【説 教 題】荒野の試み
【中心聖句】イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」(ルカ4:8)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】458


 今回のテーマは、「試み」ということですが、…。調べによると、そのギリシャ語「ペイラスモス」には、大きく分けて次の2つの意味があります。
① 神が人を試みるということ。この場合、「信仰の試練」ということばがよく用いられる。
② 悪魔が人を試みるということ。この場合、「悪魔の誘惑」ということばがよく用いられる。

では、神はなぜ私たちに試練を与え、一方、悪魔はなぜ私たちを誘惑するのでしょうか。
① それが神からの場合、
・ その人を訓練するため
・ その人の信仰を成長させるため
・ その人の信仰的決断を促すため
・ その人が神から愛され、期待されているがゆえに
② それが悪魔からの場合
・ その人が罪を犯すように仕向けるため
・ 神の目的からその人をそらすため
・ 悪魔にとっては、その人が邪魔な存在であるがゆえに

 ところで、ヨハネの手紙第一2:16をご覧ください。人を誘惑してくるときの悪魔の常套手段が何であるのかが、ここからわかります。
① 肉の欲(基本的欲求がらみの欲):~がしたい(want to do)
② 目の欲(視覚を通しての欲):~がほしい(want to have)
③ 暮し向きの自慢(自尊心がらみの欲):~でありたい(want to be)

 しかし、誤解していただきたくないのですが、私は欲それ自体が悪いと言っているのではありません。むしろこれらのものは、本来、神からのものであり、喜ぶべきものです。しかし、悪魔はこのような人間の欲に働きかけてきては、神のみこころと関係のない欲望を起こさせ、ついには神のみこころと関係なく行動するよう仕向けてくるのです。

 たとえば、創世記3:6をご覧ください。ご承知のとおり、ここには悪魔の誘惑を受けたアダムの妻エバのことが取り上げられています。そして、ここのところを注意深く読んでいくと、確かに悪魔の常套手段が「肉の欲」「目の欲」「暮し向きの自慢」であったことがわかるのです。
①「食べるのに良く」:つまり、「肉の欲」。悪魔は基本的欲求がらみの欲に働きかけてきては、神のみこころと関係なく、「これを食べたらどうだ」と誘惑してきた。
②「目に慕わしく」:つまり「目の欲」。悪魔は視覚を通しての欲に働きかけてきては、神のみこころと関係なく、「見ろ、おいしそうだろう」と誘惑してきた。
③「賢くする」:つまり「暮し向きの自慢」。悪魔は自尊心がらみの欲に働きかけてきては、神のみこころと関係なく、「これで賢くなれる」と誘惑してきた。
 その結果、残念ながらエバの場合、彼女の心は神のみこころにではなく悪魔のささやきにとらえられてしまいました。そして、彼女はついに罪を犯すこととなってしまったのです。

 ところで、本日の個所ですが、ここには悪魔の誘惑を受けたイエスさまのことが取り上げられています。しかも、エバのときと同様、悪魔はまたしても「肉の欲」「目の欲」「暮し向きの自慢」という3つの誘惑をイエスさまにもしてきたのです。
① 第1の誘惑(1~4節)
・ 悪魔は、40日間の断食をして空腹を覚えられたイエスさまに対して、「この石をパンに変えたらどうだ」と誘惑してきた。つまり、基本的欲求がらみの欲(肉の欲)のところを悪魔はついてきた。
・ これに対して、イエスさまは「人はパンだけで生きるのではない」(申命8:3)との聖書のことばを悪魔につきつけた。すると、これは手ごわいということで、悪魔は次の手段をこうじてきた。
②第2の誘惑(5~8節)
・ 悪魔は、この世の繁栄をイエスさまに見せ、「私を拝むなら、これらのすべてをあなたにあげよう」と誘惑してきた。つまり、視覚を通しての欲(目の欲)のところを悪魔はついてきた。
・ これに対して、イエスさまは「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」(申命6:13)との聖書のことばをつきつけ、またしても悪魔をやり込めた。しかし、敵もさるもの。悪魔は次の手段をこうじてきた。
③第3の誘惑(9~13節)
・ 悪魔は実に巧妙であるというか、聖書のことばによって誘惑を退けてきたイエスさまに対して、悪魔もまた聖書のことばを引用してきて、「聖書のことばにこうあるのだから、神を試してみよ」と誘惑してきた。確かに、そのような奇蹟が起これば、人々の絶大な賞賛を期待できる。つまり、自尊心がらみの欲(暮し向きの自慢)のところを悪魔はついてきた。
・ しかし、これに対してイエスさまは「あなたの神である主を試みてはならない」(申命6:16)との聖書のことばを悪魔につきつけた。すると、聖書のことばによって完全武装しているイエスさまを誘惑するのは大変に困難であることを知った悪魔は、しばらくの間、イエスさまから離れていったのである。

 以上、悪魔の誘惑がどのようなものであるのか、皆さんにもおわかりいただけたのではないかと思うのですが…。この悪魔の誘惑は、何も聖書の中だけの出来事ではありません。私たちの毎日の生活の中にも起こってくる現実の問題です。しかも、この霊的な存在である悪魔に対して、自分の力で勝つことのできる人がどれくらいいるでしょうか。私たちは自分自身の弱さを知っているものとして、聖書のことばで完全武装なさったイエスさまのように、聖書のことばに親しんで心に蓄え、また聖書と祈りを通して神との親しい交わりをいただき、このようにして神の武具を身につけさせていただくことによって、悪魔の誘惑から守られ、また勝利していきたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. 人が何かを「すること」(または「しないこと」)を動機づけるのは「欲・得・楽」である言われています。あなたは、どう思いますか。
2. 悪魔の誘惑を打ち破るためのあなたにとっての教訓が、きょうのところにありましたか。分かち合ってみましょう。

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マタイの福音書 3:1~6、13~17 イエスのバプテスマ [説教]

【聖書個所】マタイの福音書 3:1~6、13~17
【説 教 題】イエスのバプテスマ
【中心聖句】天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、
わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】43


 きょうのところには、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けなさったイエスさまのことが取り上げられています。そして、この出来事は「イエスさまの公生涯のスタート」と言われています。では、このときイエスさまは何歳くらいだったのかというと、残念ながらマタイの福音書からはそれを知ることができません。しかし、ルカの福音書3:23によると、受洗後、教えを始められたときの年齢が「およそ30歳」とありますから、イエスさまの公生涯のスタートは、およそ30歳と理解してよいのではないでしょうか。
 なお、この福音書の著者マタイは、きょうのところで、救い主イエスさまを登場させるにあたって、まずはバプテスマのヨハネを取り上げています。そこで前半では、このヨハネについてみていきましょう。
 たとえば、4節をご覧ください。著者マタイは、わざわざここでヨハネの風貌を取り上げており、彼は「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め」とあります。要するに、お気づきになられた方もおられるかと思いますが、興味深いことに、その服装が旧約時代の預言者エリヤのそれとよく似ているのです(Ⅱ列王1:8読む)。
では、彼はそのエリヤと何か関係があるのかというと、確かに、旧約聖書のマラキ書によると、終末におけるエリヤの再来、つまり世の終わりにあってはエリヤのような預言者が再び現われるということが預言されていました(マラキ4:5)。そのため、バプテスマのヨハネは人々から「あなたはそのエリヤなのですか」と尋ねられたりもしたわけです。しかし、彼は「いいえ」と言ってそれを否定しました(ヨハネ1:21)。ということは、彼は再来のエリヤではなかったのかというと、イエスさまご自身が、後に「このヨハネこそ、まさしく再来のエリヤであった」(マタイ17:12)と告げていることからすると、恐らく、ヨハネは謙遜のあまり「いいえ、私はそのようなものではありません」と言ったのかもしれません。あるいは、もしかするとそのとき本人にその自覚がなかったということも考えられます。
 いずれにせよ、預言者エリヤの主たる働きは、イスラエルの民を偶像礼拝から真の神に立ち返らせることでした。同じく、バプテスマのヨハネの場合もそうでした。彼は、王の王・主の主でいらっしゃるイエスさまをお迎えするにあたって、平らで、まっすぐな、通りやすい道をあらかじめ備えるがごとくに、そのようにして民の心を神へと向かわしめたのです。
 さて、こういうことですから、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」とのヨハネの呼びかけに応じて、たくさんの人々がヨルダン川で彼から洗礼を受けました。ところが、中には、それに素直に応じない人々もいたようです。7節に「パリサイ人やサドカイ人」とありますが、彼らの場合、人間的なプライドや偏見が邪魔をして、素直に悔い改めることができず、洗礼を受ける恵みを自らの意志をもって拒否してしまったのです。
 一方、イエスさまはというと、パリサイ人やサドカイ人のようにではなく、自ら進んでこのヨハネから洗礼を受けようとなさいました。なぜでしょうか。「罪ある者が、悔い改めて神に立ち返る」…、そのための洗礼であるなら、罪のないイエスさま、父なる神との親しい交わりの中にあるイエスさまがその洗礼を受ける必要はないからです。では、イエスさまはなにゆえに、そこまでして洗礼を受けたいと願われたのでしょうか。
 この答えとなるヒントは、15節にあります。これはイエスさまのおことばですが、イエスさまは次のように言われました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と…。要するに、イエスさまが自ら進んで、このヨハネから洗礼を受けようとなさったのは、ご自身に罪があったからということではなくして、むしろ罪ある人間と同じ立場に立ち、人と同じようになることが父なる神のみこころであることを知っておられたイエスさまであられたがゆえに、罪を犯すということは別として、人としての正しいことはすべて、それを実行しよう…。そして、人としての正しいことの1つが「洗礼」であり、ゆえにイエスさまはこうしてバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになられたのです。
 ということは、どういうことが言えるでしょうか。洗礼は受けてもいいし、受けなくてもいい、そのどちらでもいいというような類いのものではなくして、洗礼は受けるべきもの、ぜひ受けていただきたい、そのようなものであり、そしてそれはなぜかといえば、何よりもイエスさまご自身が私たちのために、そのよきお手本を示されたから…、ということ。私たちは今回、このことを覚えておきたいと思うのです。そして、主を信じ、主にお従いしていきたいと願いつつも、まだ洗礼を受けていないという方がいらっしゃるなら、ぜひちょうどよいときに、すなわち自らの考えで早めてしまうのもどうかと思いますが、さりとて自らの考えで遅らせてしまうということもどうかと思いますので、神さまが示してくださるちょうどよいときに洗礼を受けていただきたいと思うのです。
 最後になりますが、17節にある父なる神のことばから、イエスさまがどのようなお方であられるのかを取り上げてみたいと思います。そこでまずは、「これは、わたしの愛する子」という部分ですが、ある注解書(『新聖書講解シリーズ・マタイの福音書』)によると、これは詩篇2:7に基づいたことばだそうです。すなわち、この詩篇のことばは、「輝かしい王としてのメシヤ」と深く関係しているというのです。
一方、「わたしはこれを喜ぶ」という部分ですが、これはイザヤ書42:1に基づいたことばであり、実は、これは「苦難のしもべとしてのメシヤ」と深く関係しているというのです。つまり、メシヤには王であられるという輝かしい側面と、しかしながらこの地上にあってはしもべとしての苦しみを味わわなくてはならないというもう1つの側面があって、まさしくそのような意味において、このメシヤ預言はイエスさまにおいて成就したことを、私たちは知ることができるのです。いずれにせよ、王の王、主の主であられるイエスさまが、この私たちの罪のために人となってこの地上に来てくださり、十字架という苦しみを味わってくださった…。私たちは、このイエスさまのへりくだりを覚えて、ますますこのお方にあって謙遜にされていくお互いでありたいと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1.あなたはもうバプテスマを受けていますか。
2.バプテスマを受ける唯一の条件は、何だと思いますか。
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