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創世記13:1~18 信仰の選択 [説教]

【聖書箇所】創世記13:1~18
【説 教 題】信仰の選択
【中心聖句】あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
(ローマ12:18)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】282


 それはまだ私が神さまを信じて間もない頃のことになりますが、ある日のこと、教会でプレゼント交換が行なわれました。幸運にもそのとき一番にプレゼントを選ぶ権利が与えられたのは私でした。そこで私は山積みになっているプレゼントの中から、ある1つのものに手を伸ばしました。それはきれいな包装紙にくるまれていた1番大きな箱ものでした。さて、プレゼント披露のとき、私は胸をわくわくさせながらプレゼントの包装紙をはがし、箱のふたを開けました。するとそこには一回り小さな箱が入っていました。そこで私はその箱を取り出してふたを開けると、またまた小さな箱が入っていたではありませんか。実は、こうして何回となくこういったことが繰り返され、ようやくのこと最後のものと思われる小さな箱にたどり着きました。はたして、ふたを開けて中を覗いてみると、何と、中に入っていたのは「さいころキャラメル」が1個、そして「欲張りさんへ」と書かれてあった手紙が1枚…。
 私はこの経験を通して、大切なことを学びました。それは、私は欲が深いということ。また目に見えるものだけから判断してしまうと、ときに落とし穴があるということです。2つのりんごがあって、見た目美しく、また大きなほうを選んだとしても、中が腐っていないとは限らないのです。また、人生には大切な3つの選択があると言われています。1つは「生きる信条の選択」、次は「職業の選択」、そして3つめは「結婚の選択」なのだそうですが、ともかくも私たちの人生は常に選択の連続であるということです。そこで、今回はアブラムの信仰を通してクリスチャンの意思決定はどうあるべきかをごいっしょに学んでみたいと思うのです。
 さっそくですが、きょうのところでおわかりのようにアブラムは、最初、甥のロトといっしょに住んでいました。ところが、いっしょに暮らしているとやがて人が増え、家畜も殖えてきたものですから、共同生活をしていくのがむずかしくなってきました。おまけに、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こってきてしまったというのですから、もうどうしようもありません。それに加えて、当時、敵の襲撃がいつあるかもわからないという時代だったものですから、アブラムはその解決策として、それぞれが別々に生活するのはどうだろうと、ロトに提案しました。しかも、アブラハムは住むべき土地の選択権をロトに譲りました。叔父として、また年長者として、アブラムには当然のこと、その選択権があったにもかかわらず、彼はそれをロトに譲ったのです。思うに、彼がなぜこのようにして争いを好まず、富にも固執せず、むしろ平和を愛し、神への信仰を篤くしていることができたのかというと、かつて彼が経験したエジプトでの大失敗が、今となっては彼の「よき薬」「よき教訓」になっていたからではないでしょうか。つまり、誰にとっても失敗はイヤなものですが、アブラムの場合、彼は失敗を失敗のままで終わらせるようなことはしなかったのです。
 ところで、10節と14節をご覧ください。ここには、住むべき土地の選択をめぐって、ふたりに共通のことばが使われています。それは「目を上げて、見渡す」ということであり、彼らは、各々、目を上げて自分が住むべき土地がどこであるのかを見渡したのです。けれども、一見同じように見える行為ではありましたが、ふたりの間には大きな差がありました。たとえば、ロトの場合、彼がそうしたのは自分の利益、自分の欲望というものが大きくからんでいました。一方、アブラムの場合、彼がそうしたのは、神さまからの語りかけを聞くと、彼はそれに従った…。つまり、一方は神さまのみこころと関係なく、自分がそうしたいので、祈らずに選び取りました。しかし、もう一方はというと、祈りつつ神さまからの語りかけを聞きながらそれをしていったのです。ご承知のとおり、このようなアブラムを神さまは祝福してくださいました。一方、ロトの方ですが、彼には大きな落とし穴があったことを、私たちは後で知ることになるのです。
 そこでいかがでしょうか。私は最後に2つの家庭を紹介したいのですが、あなたはそのどちらを望まれるでしょうか。まず最初の家庭ですが、ある日のこと、夫が家の廊下を歩いていたところ、たまたま置いてあったバケツに気づかないで蹴飛ばしてしまい、ズボンをぬらしてしまうのですが…。すると、夫は妻に怒鳴りつけてこう言うのです。「何でこんなところにバケツを置くんだ。ズボンをぬらしてしまったではないか。」と…。すると、妻も大声で言い返しました。「何よ。そこに置いてあったのがわからなかったの。だいたい、あなたの方こそ、よく見て歩かないからそういうことになるのよ。」と…。次の家庭はこうです。この家でも同じように、夫がバケツを蹴飛ばしてしまったのですが、夫は妻にこう言ったというのです。「ごめん。ごめん。俺が悪かった。うっかりしてバケツを蹴飛ばしてしまったよ。」と…。すると、妻はすぐに「あら、私のほうこそすみませんでした。そんなところにバケツを置いてしまって…。これからは気をつけますね。」と…。
 願わくは、私たちの口から出てくることばにさえ信仰を働かせ、信仰による意思決定ができるよう、聖霊の導きと助けの中に歩んでいくお互いでありたと思うのです。


【恵みの分かち合い】
1. 信号が青から黄色に変わりました。あなたなら、どうしますか。
2. 責任転嫁をしやすい私たちですが、「赦す・赦さない」「怒る・怒らない」などの意思決定をしているのは、誰ですか。

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創世記12:1~20 信仰の開拓 [説教]

【聖書箇所】創世記12:1~20
【説 教 題】信仰の開拓
【中心聖句】アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。(創世12:4a)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】291


 きょうは、ユダヤ教をはじめとして、キリスト教やイスラム教の世界においても重要な人物のひとりとして数えられているアブラム、後のアブラハムの生涯から、「信仰」ということをテーマにお話をしたいと考えています。
 なお、今回取り上げたいのは、アブラムがイスラエル民族の基礎を築いた最初の部分、つまり「信仰の開拓期」です。はたして、その開拓期において、私たちは彼からどんな点で見習うべきところがあり…、またどんな点で教訓とすべきところがあるのかを探っていきたいと思うのです。
 そこで、まずは「見習うべき点」ですが、それは「神さまからの語りかけがあったとき、彼は信仰をもってその第1歩を踏み出した」ということです。ご承知のとおり、彼の故郷と言えば、それはメソポタミヤの古代都市ウルでした。調べによると、当時、この町はとても栄えていたようです。有名なピラミッド型の寺院ジッグラトがあり、月神礼拝が盛んに行なわれていたのも、この町でした。
 さて、聖書のお話になりますが、彼の生まれ故郷ウルを離れ、カランにしばらく住んでいたある日の出来事になります。アブラムはそこで神さまからの語りかけを耳にしたのです。しかも、その語りかけは、彼にとって非常に重大な、かつ大変な神さまからのご命令でもありました。というのも、12:1をご覧ください。神さまは彼に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」…、すなわち「新たな旅立ちをせよ」と仰せになられたからです。
 確かに、神さまからのこのご命令には約束が伴っていました。どんな約束でしょうか。基本的には2つあります。1つは「土地の取得」に関する約束であり、もう1つは「子孫の繁栄」に関する約束です。けれども、それはそれとして、アブラムの側にはアブラムの側の、いろいろな都合というものがあったのではないでしょうか。慣れ親しんだ町並みや人々のことであるとか、ことばや文化のこと、あるいは天候や自然環境…、そういった離れがたいいくつかのことが彼の中にあったに違いないのです。
 そして、ときにそれが決断をにぶらせ、大事な1歩を踏み出せなくなってしまうことが結構あると思うのです。私のときもそうでした。住み慣れた埼玉からここ栃木に来るにあたって、離れがたいいくつかのことが私にもありました。中でも、子育て中のわが子のことを考えると、決断がにぶったりもしたわけです。けれども、これは神さまからの召しであると信じ祈っていきますと、不思議なように道が開かれていったのです。なお、アブラムの場合、このとき彼には妻があり、身内の者たちがあり、彼の考え、彼の都合というものがあったと思われるのですが、神さまからの語りかけがあると、彼は新しい出発への第1歩を踏み出したのです。そうです。彼には「神さまがそうおっしゃるのなら…」という神さまへの篤い信仰がありました。だからこそ、たとえ自分の都合があり、住み慣れた町並みや人々との悲しい別れがあったとしても、新しい出発への第1歩を彼は踏み出せたのだと思うのです。
 では、私たちはどうでしょうか。ときに私たちは信仰のことを頭ではわかっていても、なかなかそれを行動に移せないというか、自分の考えや自分の都合というものが壁となって、そのためになかなか信仰の決心がつかないということがあるのではないでしょうか。ともかくも、「人知をはるかに超えた神さまのご計画」であるとか、「神さまの導きの最善」ということをわからせていただけるときが必ずくることを信じ…。私たちとしては、神さまへの信仰をもってその第1歩を踏み出したアブラムという模範があったことを、今回は覚えておくことにしたいと思うのです。
 続いて、今度は「教訓とすべき点」ですが…。それは何かといえば「彼の小さな不信仰が、その2歩目を踏みはずす結果になった」ということです。実は、こうしてアブラムと彼の身内の者たちとは約束の地カナンに入ることができました。しかし、注目したいのは7節から9節です。すなわち、7節と8節においては「祭壇を築いた。」「祭壇を築き、主の御名によって祈った。」とあるように、彼は行く先々で主に礼拝をささげました。ところが、ネゲブへと旅立ったときのことになりますが、ここでは「彼はその地で祭壇を築いた」とは記されていないのです。つまり、「信仰のマンネリ化」と言うのでしょうか、いつの間にか彼の信仰は慣れや惰性のために最初の頃の輝きを失ってしまっていたのです。
 しかも、そんな状態のときに限って大きな試練が彼の身に起こってきました。どんな試練でしょうか。それは、10節にあるように、ききんです。しかも激しいききんが押し寄せてきたというのです。そのため、彼は食料のあるエジプトへ下るのですが…。どうぞ、ここのところは注意深く聖書を読んでいただきたいのですが、彼は「ききんがあったので」エジプトへ下って行ったのであって、「神のことばがあったから」とか「祈って導かれたので」エジプトへ下って行ったとは、聖書には記されていないのです。しかも、彼のこのような祈らない、みことばに聞かない、そういった小さな不信仰の積み重ねが、ご承知のとおりエジプトでの大失敗を招く、つまり「ウソが招いた夫婦の危機」や「神さまから与えられた約束の危機」を招く結果となってしまったのです。
 けれども、あわれみの深い神さまがそこに介入してくださいました。神さまがそこに介入してくださったので、さまざまなことが「感謝」と言える方向に導かれていったのです。なお、これら一連のことは、アブラムにとって、それこそ大きな試練だったに違いありません。けれども、このにがい経験を通して、彼はもう1度、信仰の原点に立ち返ることができました。そうです。13:4をご覧いただくなら、彼は再び主に祈ることを始めたのです。
 さて、今回は以上になりますが…。あなたの心には何が残り、教訓になったでしょうか。また、あなたは何を決心することができたでしょうか。私の方からは、次のお勧めをしたいと思っています。すなわち、「まずは、祈ること。主は祈ることを私たちに求めておられる。もし、祈りの祭壇が崩れかけてしまっていたなら、もう一度、祈りの祭壇を立て直すことから信仰生活を始めていこう。」


【恵みの分かち合い】
1.「見習うべき点」では、どのようなことを教えられましたか。
2.「教訓とすべき点」では、どのようなことを教えられましたか。

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