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創世記3:8~24 罪の結果 [説教]

【聖書箇所】創世記3:8~24
【説 教 題】罪の結果
【中心聖句】キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。(Ⅰヨハネ3:5)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】437

創世記3章の前半には、神さまによって定められた道を踏みはずしてしまったアダムとエバについてが取り上げられています。すなわち、サタンの実に巧妙な誘惑に会い、ことばたくみな誘惑を受けたアダムとエバが、少しずつ誘惑に陥り、ついには罪を犯してしまったことが記述されているのです。なお、今回はそんな彼らのその後について…。すなわち、彼らの罪の結果が何であるのかについてが取り上げているので、そこをみていきたいと思うのです。

本論1.彼らが罪を犯した結果は、「死」である。
 さっそくですが、彼らが罪を犯した結果は、人間にとって死が現実のものになったということを、最初に申し上げておきたいと思います。しかも、人間の「死」について、聖書はそこに次の3つの意味を含ませています。
 第1は、「霊的な死」ということ。すなわち、堕落する以前の彼らにとって、神さまとの交わりというのは、ごくごく自然なものでした。彼らは、神さまの愛を素直に受けとめていたのです。ところが、罪の結果はどうなったでしょうか。8節で、彼らは「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。また、10節では「恐れて、隠れました」とあるように、アダムとエバにとっては、今まで自然であった神さまとの交わりが不自然となり、こうして神さまとの関係がしっくりいかなくなってしまったのです。そればかりではありません。神さまとの関係がしっくりいかなくなっていくと、今度はアダムとエバとのお互いの関係もしっくりいかなくなっていってしまったのです。11節から13節。要するに、神さまに「ごめんなさい」が言えない彼らは、お互いに責任のなすり合い(責任転嫁)をするようになっていってしまったのです。
 いずれにせよ、このような神さまとの断絶状態にあることを聖書では霊的な死と言っているのです。たとえば、皆さんは、確かに鼻で息をし、また3度の食事をとっているかもしれません。しかし、神さまを神さまとしてあがめず、感謝もせず、その生活に喜びがない、また生きがいがないとすれば、それこそあなたは霊的に死んでいると、聖書はそのように言っているのです。
 続いて第2は、「肉体の死」ということ。これについては、説明するまでもありません。誰もがよく知っている死、つまり生命活動の停止を意味しているわけですが、もっと正確にいうなら、魂が肉体から離れることを聖書ではそれを肉体の死と言っているのです。最初に申し上げたとおり、罪の結果、アダムとエバは霊的には死んだものとなってしまいました。なお、それだけではなしに肉体的には死につつあるものともなってしまったのです。たとえば、このことは花瓶にさしてある花を例にとるとわかりやすいのではないかと思うのですが、確かに、花瓶にさしてある花は最初はとてもきれいです。しかし、しばらくするとシュンとなり、タランとなり、ついには枯れてしまうのです。なぜでしょうか。それは、根がないからです。根がないために、そこにいのちがやって来ないのです。
 なお、聖書の中には霊的な死や肉体の死の他に、もう1つの死があることを教えています。それは何かといえば、聖書ではそれを「第2の死」(黙示21:8)と言っているわけですが、「永遠の刑罰」(マタイ25:46)とも言われています。すなわち、いのちの書に名前の記されていない者はみな、終わりの日に、サタンと悪霊たちとともにそこに投げ込まれてしまうというのです。しかも、それは「永遠の死」ということなのです。

本論2.彼らが罪を犯した結果は、「苦」である。
 ところで、彼らが罪を犯した結果は死であるということをみてきたわけですが、2つめとしては、人生における苦しみということを挙げることができます。たとえば、エバですが、彼女の場合、出産の苦しみということが言われています(16節)。さらには、夫の支配からくる苦しみということも言われています(16節)。要するに、彼女は精神的にも、肉体的にも、苦しんで子を産み、また育てていかなければならなくなりました。そればかりではありません。彼女は人格的な愛を夫に求めるのですが、夫は力によって彼女を支配しようとしてくるというのです。
 一方、アダムの場合はどうかというと、彼には労働の苦しみということが言われています。どうぞ、17節から19節をご覧ください。そこには、次のようにあります[読む]。いかがでしょうか。今日の私たちにも多かれ少なかれ同じような苦しみがあるのではないかと思うのですが、残念ながらそれは人間の罪の結果なのです。

本論3.彼らが罪を犯した結果は、「呪」である。
 さて、罪の結果は死であり、苦しみであるということをみてきたわけですが、3つめとしては、人間の罪が自然界にも悪影響を与えているということを挙げたいと思います。どうしてそういうことが言えるのかというと、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」と、17節で神さまがそう言われるからです。すなわち、自然界は人間の罪によって被害をこうむるものとなってしまったのです。しかもその深刻さは、21世紀を迎えた今日ほど明かな時代はありません。私たちは、「地球の温暖化」「フロンガスによるオゾン層の破壊」「酸性雨」「熱帯林の破壊」「放射能」といったようなことばを聞く機会が増えたと思うのですが、今日、地球環境はもはや危機的状態にあるということを多くの学者が指摘しているのです。

本論4.3:21に見ることができる神の保護
 しかし、そのような中で注目したいのは3:21です。そこを見ると、罪ある人間のために備えられた愛の保護といいますか、人の裸を覆うために、神が皮の衣を作って人に与えてくださったということを覚えたいと思うのです。つまり、人が保護されるために、動物の犠牲というか、血の注ぎがあったということです。そして、私たちからするとそれはイエス・キリストの十字架を思い出すのです。イエス・キリストは、きょうの中心聖句にもあるとおり、罪を取り除くために、この地上に来てくださいました。私たちではどうすることもできない死の問題や苦しみの問題から私たちを解放するために、救い主は来てくださったのです。そればかりではありません。人間の罪の悪影響を受けてしまった自然界…。聖書によれば、その自然界はやがて新たにされるとあります。要するに、人間が再び自然との調和の中で生きることができるようになるために救い主は来られたというのです。

私たちは、十字架の上でご自身の血を注ぎ出して救いを完成してくださったイエス・キリストの愛をきょうも覚えたいと思うのです。

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創世記2:18~24 アダムとエバ(ふさわしい助け手 [説教]

【聖書箇所】創世記2:18~24
【説 教 題】アダムとエバ(ふさわしい助け手)
【中心聖句】それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ5:33)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】394

 きょうの説教題は「アダムとエバ」、副題は「ふさわしい助け手」としました。きょうは、ここから結婚夫婦を考える上で大切になってくるいくつかのことを取り上げてみたいと考えています。
 さっそくですが、18節に「人が、ひとりでいるのは良くない」とあります。はたして、その意味するところは何でしょうか。ある人は、「独身でいることは、人間としてよろしくない」と考えるかもしれません。けれども、実は、そういった「ひとりよりはふたり」といった、いわば数が問題にされているのではないようです。では、どういう意味があるのかというと、「人間は、男性だけではよろしくない」…、つまり性別のことが問題にされているようなのです。
 では、人間はなぜ男性だけではよろしくないのかというと、第1に、男性だけでは神のみこころにかなっていないからです。このことは、神の創造のみわざである自然界に目をとめていただくなら、誰しもが納得できるのではないでしょうか。ご承知のとおり、自然界にはハトやカラスなどの鳥類がいますが、これらはオスとメスとに分かれています。また、海にはマグロやサバなどの魚類がいますが、やはりこれらもオスとメスとに分かれています。またライオンやゾウといった陸の動物にしてもしかり、それらはオスとメスとに分かれています。では、ハチやアリといった小さな昆虫はどうでしょうか。やはり、それらの小さな世界にもオスとメスとがいるのです。さらには、植物の世界にしてもしかり、そこにはオシベとメシベがあることを私たちは知っています。
 要するに、人間もそれらと同じであって…。人間は、男性だけではダメなのです。同じく、女性だけでもダメなのであって、人間には男性と女性とがあって、はじめて神のみこころにかなうことができるのです。聞くところによると、世界の人口が約60億として、その男女比はおおよそ半々だそうです。また、この男女比は人類の歴史始まって以来ほとんど変わっていないというのですから、不思議な気がします。
 さて、人間はなぜ男性だけではよろしくないのか、その2つめの理由ですが、それは男性だけでは神のみこころにかなっていないばかりか、神のみこころを完全に行なうことができないからです。しかも、ここで言っている神のみこころとは、1:28で教えられているところの「子孫繁栄」ということにおいてです。ご承知のとおり、男性と女性とでは、からだのつくりが違うと言いますか、やはり子孫を増やすという点において、このことは男性だけではどうすることもできない事柄なのです。
 さて、次にいきたいと思いますが、18節に「ふさわしい助け手」とあります。はたして、これにはどういう意味があるのでしょうか。ある人によれば、これには「真実な協力者」とか、「かけがえのないパートナー」という意味があるそうです。そしてそれが本当にそうだとしたら、夫は妻をどう理解してきたでしょうか。歴史上、女性が子を産む道具として、あるいは家の雑用をしてもらうために雇っている召使のように扱われてきた時代があったと聞いていますが、聖書の原則に従うなら、いつの時代であれ、夫は妻を「真実な協力者」として、もしくは「かけがえのないパートナー」として理解することが大切になってくるのではないでしょうか。
 なお、21節と22節をご覧いただくと、女性は男性のあばら骨の1つから造り上げられたと、聖書は言っています。ということは、どういうことが言えるでしょうか。マシュー・ヘンリーという人はこのことについて次のようなことばを残しています。「女性は、アダムの脇のあばら骨から造られた。彼の上に立つために、頭から取られたのでも、彼に踏みつけられしいたげられるため、足から取られたのでもない。彼と同等になるためその脇から、保護されるために腕の下から、愛されるために心臓の近くから取られた。彼はあばら骨を失ったが、力も容姿も損なわれていない。疑いもなく、傷跡は残らなかった。むしろ、彼は失ったものを満たして余りある良き助け手を得た」と…。※1
 ところで、今度は24節をご覧ください。ここには大切な2つのことが教えられています。1つは「結婚する場合、何が大事になってくるか」ということであり、もう1は「では結婚した場合、今度は何が大事になってくるか」ということです。そこでまずは第1のテーマを取り上げてみたいと思うのですが、結婚する場合、はたして何が大事になってくるのでしょうか。聖書によれば、それは「父母を離れる」とあります。たとえば、経済的な面での自立ということからするなら、親の財布をいつまでもあてにしていてはいけないということです。また、精神的な面での自立ということからするなら、親子の結びつきよりもむしろこれからは夫婦の結びつきをしっかりさせていかなければいけないということです。いずれにせよ、この点で早くに、子は子で「親離れ」を、親は親で「子離れ」をしていくことが幸せな夫婦生活を送る鍵であるということを聖書は教えているのです。
 さて、次のテーマを取り上げてみたいと思うのですが、では結婚した場合、今度は何が大事になってくるのでしょうか。聖書によれば、それは「結び合い、ふたりは一体となる」とあります。すなわち、夫婦はまず霊的にも、精神的にも、しっかりと結び合わされていくべきであり、そのためには共に祈ることや夫婦の会話といったようなことが大切になってくるというわけです。さらには、性生活を通しての一体化ということも非常に大事なことのようです。なぜなら、家庭不和の大きな原因の1つが、この性生活の不調和にあると言われているからです。ちなみに、ある本によると、「性生活さえ順調であれば、たいていの場合、他の少々の摩擦は問題にならない。性生活の均衡を保つことは、結婚生活には絶対に必要だ」と書いてありました。ついでながら、こんなことも書いてありました。「家庭不和の原因の大部分は、きわめてささいなことです。主人が出勤する時、妻が手を振って見送りさえすれば離婚は回避できるような場合が多い。そして、このことは夫にも言えることであって、妻へのささやかな賛辞や心尽くしの価値を軽くみすぎている男性がなんと世に多いことか。数本の花を贈るのに彼女が病院に入院するまで待つ必要はありません。早くに実行すべきです」と…。
 いかがでしょうか。以上のようなわけで、きょうは夫婦を考える上での聖書の教えについてみてきたわけですが…。願わくは、きょうの中心聖句に心をとめたいと思うのです。そして、妻は妻として「夫を敬う」とは、どのようなことであるのか。また、夫は夫として「妻を愛する」とは、どのようなことであるのかを思い巡らしていただきながら、この一週間を過ごしていただきたいのです。主はあなたとの親しい交わりの中で、あなたに語りかけ、また大切なことに気づかせてくださるに違いありません。

※1 「内藤先生の家庭セミナー」(内藤きみよし著、ファミリー・フォーラム・ジャパン p.54)
【恵みの分かち合い】
1.独身でいることの幸い、また夫婦でいることの幸いについて、話し合ってみましょう。
2.「夫を敬う」とは、また「妻を愛する」とは、どのようなことを意味するでしょうか。

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