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ヨシュア記14:6~15 従い続けた信仰の勇者 [説教]


【聖書箇所】ヨシュア記14:6~15
【説 教 題】従い続けた信仰の勇者
【中心聖句】信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
(へブル11:6)
【説 教 者】 黒田 明
【新 聖 歌】 399


 『信仰の訓練』という本の中で、著者エドマンは「晩年の訓練」ということを取り上げ、次のような文章を書いています。

「人生の日が傾き、体力も衰え、かつて自分のために開かれていた門戸が閉ざされ、慰めてくれる者も去り、1日の汗も重荷も他の人々に任せるようになるとき、いよいよ慈愛に満ちた温厚な老人になるように努め、体力はあっても経験の足りないむすこや他の人の手に責任をゆだね、新しい時代の要求に応じ、何にもまして他の人々のために祈り、主が老人のために備えていて下さる新しい奉仕に努め励むことによって主に仕えることこそ、晩年を迎えた者の受けるべき訓練である。このような訓練を経てこそ、私たちは、私たちを最も必要とする人々にとってよきかおりとなり、また励ましとなることができる。」

 ところで、私たちがきょう取り上げたいのは、旧約聖書の中に登場してくるカレブという人物です。しかも、当時85歳だった彼から受ける印象は、年を重ねた人にありがちな落ちついた静けさのある魅力ということではありません。むしろ驚くほどのパワーがあり気力がある…、それがカレブという人の魅力ではなかったでしょうか。ということで、私たちはきょうカレブという人を知りたいと思うのですが、残念ながら、彼についての詳しい記録が聖書の中にもありません。たとえば、民数記の13章においては、彼が40歳のときの出来事が記録され、また本日のヨシュア記14章においては、彼が85歳のときのことが記録されている程度にしかすぎないのです。しかし、ヨシュア同様、カレブは信仰の人であり、見習うべき人物のひとりでもあったということを覚えたいと思うのです。
 そういうわけで、まずは彼が40歳のときのお話をしたいと思うのですが…。それはちょうどイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を放浪し、ようやくのことで約束の地カナンにまで近づくことができた、ある日のことになります。そのとき、指導者モーセは約束の地カナンを探らせるために、12人の偵察隊を派遣しました。ご承知のとおり、その偵察隊のひとりがヨシュアであり、またカレブもそのひとりであったわけです。
 さて、40日後、偵察から帰ってきた者たちは、そのときの様子を全会衆の前で次のように報告しました。すなわち、「確かに、そこは神さまの約束のとおりにすばらしいところだ。しかし、そこには強そうな人たちがいる。」と…。そのため、全会衆はすっかりおじけづいてしまいました。「しかし、そこには強そうな人たちがいる。」というのが彼らの強調点だったからです。一方、ヨシュアとカレブの報告は違っていました。はたして、どう違っていたのかというと、他の10人と似ているようで大きく違っている次のような報告をしたのです。すなわち、「確かに、そこには強そうな人たちがいる。しかし、そこは神さまの約束のとおりにすばらしいところだ。」と…。
 要するに、人には、各々、物事のとらえ方に癖があるというか、消極的なことをつい口にしてしまう人がいるかと思えば、積極的なことを常に口にしている人がいます。否定的なことをつい口にしてしまう人がいるかと思えば、肯定的なことを常に口にしている人がいます。また、批判的なことをつい口にしてしまう人がいるかと思えば、前向きなことを常に口にしている人がいるといったような具合です。
 なお、カレブという人は、どちらかというと物事のとらえ方が前向きで肯定的だったように思うのですが、いかがでしょうか。しかも、彼の場合、ただ前向きで肯定的だったというのではありません。彼の前向き肯定的な生き方の背後には、全能の神を仰ぐ信仰が働いていたということを見落としてはならないのです。そして願わくは、私たちも信仰からくるところの前向きなことば、肯定的なことばを口にするものでありたいと思うのです。と同時に、人を引き下げ、また自分さえも引き下げていく…、そういった悪循環を繰り返すようなことばを軽々しく口にしてしまうことがないよう、心掛けていきたいとも思うのです。
 さて、今度のお話はそれから45年後のことになります。カレブは年を重ねて85歳になりました。約束の地カナンにもようやくのこと入ることができ、念願の土地も所有することができました。こういう場合、「やれやれ」ということで、木々のこずえにさえずる小鳥の声を聞きながら、静かに晩年を過ごしたいと思うのが、人の常ではないかと思うのですが…。カレブの場合は、そうではなかったのです。何と、85歳になっても、なお「新しい仕事に着手してみよう」とか、「最も困難と思われる働きにもチャレンジしてみよう」とか、そういった具合だったのです。
 さて、そこでいかがでしょうか。聖書の中に登場してくる人物で、恐らく、このカレブほどパワーのある、活気に満ちた魅力ある高齢者を私は他に知りません。そして、老いを生きるというとき、このカレブのような人生もいいなと思うのですが、逆に、体力がなくても、また人のお世話にならなければ生きていけないような状態にもしあったとしても、へりくだって、人々からの親切には感謝ができ、また周りの人々のためには祝福を祈ることができたとするなら、そこにもカレブとは違った静かな魅力、落ち着いた魅力があるのではないでしょうか。
 要するに、どんな人生であれ、全能の神を仰ぎ見て生きていこうとする信仰があり、また従い続けていこうとする信仰があるなら、それこそがその人の輝いた魅力になっていくのではないでしょうか。最後にもう1度、著者エドマンの「晩年の訓練」を読んで終わりにしたいと思います。

「人生の日が傾き、体力も衰え、かつて自分のために開かれていた門戸が閉ざされ、慰めてくれる者も去り、1日の汗も重荷も他の人々に任せるようになるとき、いよいよ慈愛に満ちた温厚な老人になるように努め、体力はあっても経験の足りないむすこや他の人の手に責任をゆだね、新しい時代の要求に応じ、何にもまして他の人々のために祈り、主が老人のために備えていて下さる新しい奉仕に努め励むことによって主に仕えることこそ、晩年を迎えた者の受けるべき訓練である。このような訓練を経てこそ、私たちは、私たちを最も必要とする人々にとってよきかおりとなり、また励ましとなることができる。」

【恵みの分かち合い】
1.あなたは、どのような高齢者になっていきたいですか。
2.高齢者問題にどのようなものがありますか。教会として取り組めることにどのようなものがありますか。
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